2018-03-21

自由・平等・友愛?

以前書きかけていたのですが、時機をかなり逸してしまいそのままになっていました。

マクロン大統領が大晦日に国民に向けてテレビで昨年の総括と今年の抱負を訴えた動画がフランス大使館のホームページに掲載されていました。

マクロン大統領が国民に向けてテレビ演説 - La France au Japon



時折背景に映るマリアンヌ?の絵と、フランスの三色と三つのスローガンのうちのひとつFRATERNITÉ(日本語訳としては『博愛』で知られてますね。ですが最近はむしろ『友愛』と訳されることのほうが多いかもしれません)。












同様に、私は人々の友愛精神(フラテルニテ)に賭けたいと思っています。友愛とは私たちを結びつけ、ひとつにし、 まとめるものです。私は思うのですが、功績、数々の成功というもののなかで……もしこうした成功が、言ってみれば限られた人々だけのものだとしたら、何の価値があるというのでしょう? 自分さえよければいい、社会など自分にはどうでもいいといった考えに拍車をかけるだけのものだとしたら。そんな幸福は長続きなどしません。こんなにも多くの国民がボロボロになりつつあるのは、一握りの人々が成功しているからだなんて。


最近、私も思うのですが、もう個人主義、自分本位でいいということ自体が、時代遅れ感があります。これから日本だって少子化でどんどん人口が少なくなっていくなかで、個人主義だけじゃやっていけないのではないかなと。そんなこというと、そういう考えこそが全体主義、集団ヒステリーを生み出し戦争につながる、みたいな危惧を訴える先輩方もたくさんいらっしゃいますけど、自分の個性、自分の考え……筋というんでしょうかね、そういうものがしっかりベースにあって、自分でしっかりもっていれば、自分さえよければいいなんてみみっちいことは案外思わなくなるものではないかと。

いわゆる若い世代、といってももう40代の人々もそうですけど、生活に余裕がない社会にそんなことを求めるのは酷かもしれません。実際私もしんどいといえばしんどい。けれども、現に自分さえよければいいお金持ちなんてたくさんいるじゃないですか。だから生活に余裕があるとかないとかは、自分本位になる一つの要因ではあるとはいえ、決定的な理由でもないような気がします。

実際、今のトレンドは「自分だけ幸せになっても意味がない」だと思います。去年、テレビ朝日で放映されていたトットちゃん!というドラマで、若かりし頃の黒柳徹子はあの小林先生の「みんないっしょだよ!」という言葉を胸に、NHKの研修生時代に「生き残るためには周りを蹴落とさなきゃいかん」という大先輩の言葉を拒否するシーンがありましたが、あれって、そのトモエ学園が「みんな違ってもいい。みんな違うのは当たり前で、自分は自分。だからこそお互いを認め合おう」という個を大事にする教育方針だったからこそ「みんないっしょだよ!」という言葉が生きてくるのではないかと。

世の中、楽なことばかりではなく、自分の願っているようには行かないことも多々あって、ときに自分は自由でありたいゆえに誰にも理解されないひとりぼっちだと思ってしまうこともあるかもしれません。

政治の世界を見ていたって、なんだかなと思うことも多いし、自分が暮らす社会もなんだかなと思うこともないわけではないのですが、それでも他人の善意っていうものを信じたいと思うこの頃です。

「出来ない約束はするな」

って言葉について、最近よく考えます。実際、私も曲がりなりにも翻訳という仕事をしている以上、仕事をお引き受けするにあたってその条件はかなりシビアに考えます。何が厳しいかといえば、翻訳本というのは翻訳を仕上げてからでないと、初版部数が確実にはわからないという点です。
もちろんだいたいこれぐらいの初版部数の予定です、というのは打診があるときに伝わってきますが、その通りに行くかは訳校が上がったときに出版社の会議でもっと上の方々や他の営業・PR関係の方々含めてどれだけ刷れるかどうかを決めた結果によるでしょうから、かならずしも予告されていたとおりにはならないこともあります。今は初版部数をしぼって重版を繰り返すのが主流ですから、重版がでなければもうお手上げですが、重版にまでなる本はPRのうまさ、日本語タイトルの付け方のうまさにかかっていると感じることもあります。

言ってみればもはや、翻訳出版という業界は、金銭をもらうというプロ意識という以前に、翻訳者の原作に対する情熱、このいい作品を日本の人にも紹介したいという善意で成り立っていて、そちらのほうが問われているといっても過言ではないと思います。それを「生業」として生活できるレベルの出版翻訳者はわずかではないでしょうか。私はそんなたいそうなレベルではないし、心身共にすり減らす割には金銭的には得るものは少ない仕事、その割にはどれほど家族を犠牲にしているのだろうと悩むこともあります。
だから、「今の私には無理です、できません」と申し上げることもあります。毎度、次のチャンスはもう巡ってこないのだろうなという恐怖を感じながらも、やはり出来ないと思われる約束はしないのは「プロ意識」の一種だと考えるようになりました。

でも、まったく違う意味で「出来ない約束でも声に出して言ってみたほうがいい」と思うこともあります。

社交辞令であっても「何か手伝えることがあったら言ってね」と誰かに言ってもらえるだけで、それが結果として実際には可能かどうかは別として、そのときどれだけ気持ちが救われるか、気持ちが明るくなるかということをここ最近、本当に身にしみて感じることが多かったです。

善意というのはわかりやすい「実績」ではなくて「気持ち」なんだなと思います。
できないかもしれない、なんて予防線を張って優しい言葉をかけられないと思うくらいなら、できなくてもやっぱりかけたほうがいい。

最初のフラテルニテの話から少しずれつつありますが、お彼岸の日にそんなことを考えてしまいました。

個人的なことを言えば、私の父は失意の中で亡くなりました。ですが、生前形式にこだわる人ではなかったので、私は今日もお墓参り行かなかったけど、きっと許してくれると思います。私はできる限り人の善意を信じて生きたいと願うことが、たぶん今どこぞの空にいるであろう父が喜んでくれることではないかと願った一日でした。

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