2018-12-04

近況報告(2018/12/04)

まあね、フランスの暴動について思うところを少し書きました。

その後、フィリップ首相が暴動について会見しましたので追記を加えています

Tumblrはなんと成人向け投稿を全面禁止するらしいですね。私だって成人向けアカウントにフォローされたら自力でブロックしてきましたけど、別に自分がフォローするわけじゃないんだから、なんの問題もなかったんですけど。

Instagramは相変わらずフィギュアスケートフォローできないままです。

私のお気持ちを害するのはあなたの責任、の時代です。

「お気持ち」の時代

日本でも今年をふり返れば、「私の『お気持ち』を害したのは、あなたの責任です」的な言われ方をする事件が結構あったように思いますが、これって何も日本だけの傾向ではないです。

以前書いたテレビシリーズのビッグバン★セオリーに出演する、ジム・パーソンズも今の社会はあまりにも簡単に、結局のところさほどたいしたことでもないことでも傷つく、というようなことを言っていましたが、米国は訴訟社会といわれ、しかもそれこそ、そんなことでも慰謝料請求するの??っていうようなネタはむか~しからありました。私が覚えている限りでも子供の頃から。

フランスで元々は燃料税増税によるガソリン値上げに対するデモ活動だったものが、もはや当初の目的を逸脱した暴動に発展しました。地方の人々が怒るのはわかるんですよ。パリほど公共交通網が発達していないから。

ガソリンの値段が上がったのは、まずは石油価格を他国に依存しているというのもあるでしょう。中東諸国、特にそれからトランプのアメリカが協定をひっくり返してイランに経済制裁するというあれの影響も少なからずあるのかもしれません。フランスがイランの核開発問題をソフトランディングで解決したかったのも、自国の石油会社がかなりイランに投資していたからというのもあります。でも石油価格が今世紀になって上がっているのは、どこでもそうですよね。別にマクロン大統領になったからではない。

でも、燃料税の増税となると話は違ってくる、ということになります。

マクロン大統領は、自著でも熱く語っているように、フランスが経済力を取り戻す方法はクリーンテック産業に力を入れることであると信じています。経済推進派なんですけど、ちょっとこれまでのフランスの政治家とは路線が変わっていて、経済を推進させる方法として環境保護運動を積極的に利用しようという立場です。

フランスは原子力発電の割合が多い国ですが、発電所が日本と同様に老朽化しているんですね。これはまずいという段階。しかも日本でも反原発派の方々ならば特に詳しいように、あれ作り直すにしても、だましだまし維持するのにも、発電の結果残ってしまう放射性物質を処理するのも、かなりお金がかかる。

ヨーロッパは石炭を燃料に使っている国が多いのですが、たしかやっとドイツが石炭生産をやめたとかいう段階ではないでしょうか?英国もずいぶん石炭採掘をやめたとはいえ、まだまだ利用は多い国です。この2カ国が石炭利用をやめたら、ヨーロッパの温室効果ガスの削減はかなり進むと計算されているようです。逆にいえば、いまさらフランス石炭なんて使えないですよね。

フランスの現政権の言い分としては、そもそも石油価格が高騰してガソリンが高くなるのは、石油を他国に依存しているからだ。だから、再生可能エネルギーに移行しないと、他国の状況でうちの国が振り回されるんだからガソリンの車……ましてやディーゼル車とか使ってる場合じゃないんだよ、さっさとEVに移行しないと。原子力発電は徐々に減らすつもりだけどいま完全にやめるつもりはない。つまり、うちの国は現状、石油や石炭に依存しすぎなくてもまだ発電できるんだから、いまのうちにEU枠で他国にも排ガス規制を強いたほうが、クリーンテック産業をリードする勝算がある、そして新しい産業である風力発電やその他色々も同時に始めたら、これまでなかった雇用だって増えるだろうし、だから将来を見越してだから燃料税を資金にして……そろそろみんなEVに買い換えて、他国にもEV売りまくってルノーや日産の業績も上げて……

そういう言い分なんだと思うんですけどね、問題は国民はそこまで頭がよくない、目先のことしかみえない、はっきり言って、マクロンやフィリップがこれまでの政治家よりも経済活動に詳しすぎるからこんなことになっちゃってる、ともいえる。フランスの政治家はわりと、グランゼコール経由で官僚から政治家になっていく「民間の会社でほとんど働いたことのない」経済オンチでしたから。

しかも、デモをやると予告がされたときにマクロン大統領と現フィリップ内閣は「意見の表明をするのは自由だからデモ自体はかまいませんよ」と言ったわけです。「でもエネルギー転換政策はフランスの将来に必要だ」と。

これがね、要するに地方のまだ不遇な人々にとって、エリートマクロンやフィリップの上から目線発言に受け止められたわけですよ。はっきり言えば「国民のお気持ちを害した」わけです。

実際、この黄色のベストのデモが始まった当初は、パリが一番そのデモには無関心でした。オリンピック招致も決まっているパリは、今の市長も大気汚染をなくしましょう活動に熱心なこともありますし。

マクロンとフィリップ内閣が「デモをするならそれはフランス人の権利です」と言ったことが、どういうわけか「パンがなければブリオッシュを食え」と同義に解釈されたんでしょうかね、ますます地方の人々にとっては「パリ(金持ち)は恵まれているから」と恨み辛みが爆発したわけです。しかも、メディアは大手から怪しいフェイクものまでそういう恨み辛みを煽るような報道をする。いわゆる分断をあおりました。

というわけで、週末になると人々がパリにやってきて、もはや本来の燃料税云々以前に、いけすかないマクロンを引きずり下ろす、面目をつぶすために、あちこちでモノを壊しまくって略奪するという結果になりました。別にパリ住民じゃなければ、パリのモノ壊しまくったって自分は痛くもかゆくもない。みんなでやれば捕まる確率も低いし。それぐらいパリはされて当然だと恨みを買ったわけです。パンもブリオッシュも食べられる人たちだから、という理由なんでしょう。

私、大統領選の時からずっと思っていたんですけどね、マクロンっていけすかないようにみえるかもしれないけど、むしろおめでたいんですよ。結構素直なタイプだと思いますよ。
意外と人の善意を信じるタイプです。説明すれば誰だって自分のいわんとしていることはわかってくれるって本気で信じているような人。他人の話を聞かない、とか、他人の話を自分の意図していたように理解できないとか、読解力がない人が世の中過半数は優に占めるであろうことがわかっちゃいない。

たとえば選挙戦の時でも自分に反対する地元の閉鎖予定の工場……完全アウェイ状態の中乗り込んでいって、1時間も工場の門の外でぎゃあぎゃあ話し合ったりしたわけです。目をそらさずに「必要とされる産業は時代によって変わる。政治家が特定の企業の工場閉鎖を止めることは、民主主義・資本主義国家ではできないこと。私は他の産業を呼び込むために動くことならば政治家として動くことはできる。だから待ってくれ」と言うわけです。大抵の政治家は、ルペンがそうだったように「工場閉鎖を止めるようにします」と口約束しますよ。できもしないのに。

(ちなみにこのアミアンのワールプール工場ポーランドへ移転事件はその後、非常に面白い展開になったので、いつかそのことを書きたいと思っていながら、それができないままいまや暴動です)

EUはフランスの敵ではなくて、EUこそフランスが道を開いていける基礎となると、理屈をもって説明すればわかってもらえる。労働法改革もすぐには結果はでないかもしれないけど、ただ国からその場しのぎで手当をもらって甘んじて暮らすよりは、長い目で見れば必要とされる技能を身につけて自活して、さらには豊かになれるかもしれない道筋を作った方がいいのだからといったことも、説明すればわかってもらえるって本気で信じている……さすがのマクロンもいまや「信じていた」と過去形で考えてしまっているのかもしれないけど。

「デモをするのは人々に与えられた自由」というのはフランスの基本となる精神だからと当初認めたマクロンは、いまや「こんなに大ごとになって状況をおさめられないのはおまえのせいだ」とまた怒りを買っているようです。

そう、本人はそんなつもりは全然ないのに、国民は勝手に「お気持ち」を害したからなのです。
まだマクロンが大統領になってから2年経ってないし、フィリップ内閣がこれまではじめた改革もまだ結果出てない段階ですよ。源泉徴収制度導入なんて、まだ始まってもいないんですよ。それなのに、これは自分たちに不利な改革だと決めつけてパニック起こしてる。

当初の目的から今は「源泉徴収制度撤回・燃料税増税撤回・最低賃金の値上げ」を求めるデモになったそうですが、この中で今の政権が応じられるものがあるとしたら最低賃金の値上げぐらいじゃないでしょうか。

なお、この源泉徴収制度導入については、カルロス・ゴーンの逮捕と絡めてまた別の機会に書こうと思います。はてなブログのほうで、自分にとってのフランスについての振り返りにも絡めようかな。

フランス人にとって源泉徴収制度導入するのに嫌な理由がいくつかあるんんですけど、そのうちの一つが「収入が減ってしまった感がするから」なんだそうです。「一括で税金を払ったほうが収入が減った感が少ない」んですって。

私に言わせれば、なんだそりゃ、なんですけどね。

日本でiPhoneが昔から売れ続けていたのはむしろ、一括で払わないで分割払いにしたからですよね。だからあの端末が高額な印象を受けずに、みんなよってたかって買ったというのに、フランス人にとっては分割払いにするほうが「高く感じる」らしい。結局「お気持ち」ですよね。だって税金の場合、一括だろうと分割だろうと額は変わらないのに。
いったいその言い分のどこが数学大国フランス的なのか、もはや私にはわからなくなっています。

フランス人にとっては逆らしいというのは、心当たりがありまくりなので、やっぱりゴーンの件といっしょに後日書きます。

追記(2018/12/04 22:00)

COP24がポーランドで開催されるにあたり、先日興味深い記事を読みました。2020年には温室効果ガスの排出量の増加を2%までに抑えなければならないという目標があるのですが、何とフランス、2017年は前年度比でCO2排出量が3.2%も増加しているのです。なお、EU諸国の平均としては1.8%増加で横ばいでした。

先にも述べたとおりマクロンはエネルギー転換政策を世界に向けて発信し、推進しようとしている手前、この数字はかなり見栄えがよろしくないわけです。だから、私は大統領としては燃料税の増税に関する妥協はできないだろうなと踏んでいましたが、先ほど、フィリップ首相が会見を行ないました。

首相としては、確かに働いても報われない人々に対する説明が足りなかったという認識をもっているそうです。そしてどんな税金も国民を分断するようなことがあってはいけない、と。

いわく、人々の生活の向上は内閣の優先事項。最低賃金も1月からここ数年ではなかったほどの値上げをする(したがって先に挙げた最低賃金の値上げは、それ以上上げろという要求になります)。住民税も下げた。けれども、たとえば、遠隔地にほかの交通手段がなく車で通勤している人々、それから燃料を消費せざるを得ない断熱化されていない古い住居に住むような人々(当然、生活に余裕がない人々)に対する配慮が行き届いていなかったと、地方自治体の各関係者たちにも話を聞いて実感したようです。いや、聞くまでもなかっただろうと当事者たちは言いたいんでしょうけどね。

今年フランスは交通事故死削減を目標に公道の最高速度制限を時速90キロから80キロに下げていまする方針を発表しました。首相曰く年間400人ほど事故死を減らせるとのことでしたが、大統領はまず2年試験的にやってみて実際に死者を減らせるか確認するとしていました。つまり車で長距離通勤している人たちにとっては通勤時間が長くなるために不評を買っていたわけです。標識を変える金もないと地方自治体にも不評でしたが、標識変えなくても80キロをオーバーしたら罰金とのことで、行政による罰金巻き上げだと、賛成している人はほとんどいないという政策を断行しています。導入しようとしました。(まだ施行されてなかったんですね。これも一月からの予定だったのをいったん延期。)

今回のデモのきっかけはそういう「既にこっちは不便を強いられているんだ」という背景があるにはあったので、配慮が行き届いていなかったというのはその辺も差しているのだと思われます。

そこで今月15日から3月まで各関係者と討議するとのことです。6ヶ月、つまり冬の間の燃料税の増税や電気料金やガス料金の値上げはしないとのこと。といっても環境問題への対応、エネルギー転換は避けて通れないものではあるので、まずは話し合う。その結果どうなるか、その責任は内閣が負うべきものだという認識のようです。

なお、先週土曜日のパリの公共施設、歴史的建造物、商業施設の破壊、落書きその他は許せないとのことです。捕まえて相応の刑罰を受けてもらいますとのことですね。これらの膨大な被害を修復するにはそれこそ「フランス人が納めた税金を使うことになるんです!!!」と首相。税金っていうのはもともとあなたたちの金なんだから、こんな無駄遣いやってられんだろうが、という当たり前だけど、フランス人が忘れがちな嫌みをさらっと言っているのがフィリップ首相らしいなあと思った次第です。財政赤字から脱却しようと一生懸命な首相なので、我慢ならなかったんでしょうね。

一応、COP21パリ協定から3年、COP24を控えてのfrance cultureの記事のリンクを貼っておきます。なおTwitterで私はG20の中の劣等生はロシアと中国と書いたかもしれませんが、正確にはロシアとインドです。



2018-12-03

あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている

私がこの言葉、厳密に言うとこの「訳文」を知ったのは、いまは亡き米原万里さんの書評・エッセイ集『打ちのめされるようなすごい本』(文春文庫)がきっかけでした。そのなかの「アフガニスタン・ハンガリー人・猪谷六合雄」というエッセイです。モフセン・マフマルバフ著、武井みゆき/渡部良子訳『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(現代企画室)を紹介し、この一文があるくだりが紹介されています。

この言葉のもとは禅宗の教えにある「指月」というたとえだというのは、私がこの二つの本を読んだ後に知りました。

まず、米原万里さんの書評では、9.11の前に起きたタリバンによるバーミヤンの石窟爆破の前にあの地で起きていたことが引用も含めてまとめられています。

ソ連軍が引き上げたあとに内戦で荒廃したアフガニスタンでは、無情にも干ばつが襲います。そのために隣国のタジキスタンに逃げようと難民が大量に発生し餓死者の数は百万人を数えました。それでもまだ増え続ける。マフマルバフは取材の過程でその様子を目の当たりにしますが、驚くことに世界のメディアは全く報道しなかったと書いています。タジキスタンは難民を受け入れなかったので、国境付近の無人の土地で彼らは死んでいきました。

米原万里さんは、こうまとめています。かぎかっこの中は、米原さんがマフマルバフを引用している部分です。

石仏の破壊には大騒ぎした世界も、石仏破壊よりもはるかに以前からアフガニスタン全土を覆っていたこの悲惨な現実に対しては無関心だった。手を差し伸べれば救えるだろう命が次々と絶たれていく事実は無視してきた。アフガニスタンの人たちは「世界の無知の中で死に、さらに死に、死に続ける」。2000万人の飢えた国民の内、30%は難民となり、10%は死に、あるいは殺され、残りの60%は餓死寸前である。

そして、マフバルバフはバーミヤンの石窟爆破について、このようなたとえとして解釈します。

「仏陀は世界に、このすべての貧困、無知、抑圧、大量死を伝えるために崩れ落ちた。しかし怠惰な人類は、仏像が崩れたということしか耳に入らない。こんな中国の諺がある。『あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている』誰も、崩れ落ちた仏像が指さしていた、死に瀕している国民を見なかった」

このたとえや解釈が正しいかどうかが問題だなんていう指摘は、それこそ「指月」のたとえそのままですので私はスルーしますが、これ、もう今から20年程前の話です。でもそれからの20年を今ふり返ると、そのようなことはもはやアフガニスタンだけではなく、世界各地で起きています。むしろ悪化している。

情けないことです。本当に。

私は米原さんのエッセイを読んだのち、このマフバルバフの本を購入しました。内容はさることながら、とにかく武井みゆきさん、渡部良子さんの訳文がとてもきれいで、この本はいまだに手放せません。読みやすい文章を書く翻訳者はたくさんいます。私はそうではないので、そうした同業者の方々を尊敬しますが、このお二方が訳された本は、読みやすいという単純な言葉ではもったいないほど「美しい」文章です。著者自身の詩的な面を、見事に表現していると思いました。実際のところ、そうした著者自身の文体の独特な空気を律儀に日本語に落とし込んでいる翻訳本は近年は少なくなったのではないかと思われます。大好きな本です。

だからこのマフバルバフの訳本にあった「あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている」という一文も気に入っています。指月に関してはいろんな言い回しや訳文がありますが、やっぱりこれが一番好きです。

2ヶ月ほど前に何を思ったか、いまさらながら「はてな」のアカウントをとったんです。おもにブログサービスですから、何について書こうか、このブログとどう差別化するか考えあぐねたまま、とにかく気に入っていたこの一節をタイトルにしました。そして、今やっと思いついたのは、そのブログを今世紀起こった色々な出来事と、自分の30年近くの履歴を重ねて書くのにぴったりのたとえではないかなということ。

まずは、フランスで起きている暴動のことかな。

ここ数か月、気分の浮き沈みがあって、私的にはまとまった文章が書けませんでした。気にかかってはいながらも、言葉が浮かばずメール一本書けないで不義理をしてしまっている方々もいらっしゃいます。ごめんなさい。少しずつリハビリ中です。

そのはてなブログのほうに何か書いたらこちらにもアナウンスしますので、そのときはよろしくお願いします。

そして、『打ちのめされるようなすごい本』も『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』も超オススメです。

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ここ数か月、眠れないときにはTumblrのメモ帳というサイトで、こんなところに身を置きたいなあと思うものをリブログしたり、眠れないと愚痴を書いたり、チョットした写真を上げたりしていました。

おととい、沈んでばっかりもいられないし、そうだ好きだったフィギュアスケートの情報収集でもし直そうかなと、それ専用のInstagramのアカウントをとろうとしました。

でも、なんか個人のFacebookとひも付けて、個人的な知り合いに私がネイサン・チェンとかリーザ・トゥクタミシェワや浅田真央ちゃんやマサルの飼い主さんの写真にいいね連発しているのが知られるのも大人げなくてこっぱずかしいと思ってしまったのが運の尽き。
ひも付けしないでアカウントとってフィギュアスケーター10人ほどとマクロン大統領を一気にフォローしようとしたら、スパムアカウントだと認識されて、肝心のフィギュアスケーターフォローできないままでいます。バカです。一応Instagramには事情を書いて送りました。でも、マクロンすらフォローできないまま。
フィギュアスケーターの情報だけ見て楽しみたかったのに、結局、正当性を主張しようとするあまり、自分の翻訳副業ビジネス用アカウント扱いになっています。

でも、なんでしょう、ビジネス用アカウントにしちゃったらしちゃったで気づいたのですが、いまこの時点でFacebookの個人アカウントのフレンドでInstagramユーザーをリンクさせちゃうとその方々に圧倒的なご迷惑かかりますよね。私と知り合いだなんていう情報が勝手に公開でダダ漏れされるのって気分悪くなりますよね。

だから有名人だけをフォローして写真を見たかっただけなのに。

いったいどうなっちゃってるんですかね、Facebookっていう会社は。指そのものじゃない、指が差している先を見ようとしてくれ。

なんだかInstagramについては泥沼状態ですが、仕方ないから毎日何かしら写真をアップしています。副業ともさほど関係ないけど。





近況報告(2018/12/03)

やっとすこしだけこのブログの記事を更新しました。

徐々にこれからリハビリしていきます。

そして、はてなブログにも初めて一本記事を書きました。自己紹介みたいなものです。
自分語りしてなんなのって思われるかもしれませんが、私がフランス語を学ぶことになった経緯は、私自身のフランスに対する見方にかなり影響を与えているかもしれません。たぶん、この前提が知られてるか知られてないかで私は誤解されるかも。

2018-10-19

近況報告(2018/10/19)

先日、実母が腎臓から結石を内視鏡で取り出す手術をしたのですが、人生で8回手術をすると、何かアレルギー反応だかが起こるのか、通常通りにはできないこともあるらしいです。ともかく、手術回数が多い方は、その旨をしっかり担当医に伝えておいたほうがよいみたいですよ。

ERという一昔前流行ったドラマを思い返す限り、アメリカ人は軽く8回ぐらい手術してるんじゃないか?って思ってしまいますが、どうなのでしょうね。

ちなみに母は人生で8度目の手術を無事に終えることができ、後期高齢者としてはかなり元気で運の強い人だと私はそんなふうに見ています。
なのに、本人は全然そう思っていないようですけどね。

ものの見方って色々だなと思います。どれが正しいかという問題じゃないんです。

2018-10-03

近況報告(2018/10/03)

マイケル・ジャクソンはかつて、自分の作品は未来永劫残るものなのだから、ミケランジェロの彫刻のように最高峰でなければならないと、というようなことを言っていました。

だからスーパーボウルのギャラなしライブだって、あそこまでやったわけです。もう四半世紀も前のことですけど、マイケルがあそこまでやるようになって以降は、依頼されるミュージシャンはみな手を抜けなくなりました。

民放のニュース番組のテーマ曲を依頼されて、書き下ろして演じてみましたというこの曲も、そういった心意気を感じてしまうのです。ここまでやるのか椎名林檎。




2018-09-23

最後の集中力が残っているうちに学び直ししたいかも

英語以外の言語の専門家にこれからなろうと思っている人は、サイエンス系の知識があるほうがいいです。というかですね、いま十代の子供たちは、理数系なんて苦手~程度の先入観で敬遠しないほうがいいですよ。圧倒的に将来やれることの選択肢の数が違ってくると思います。
フランス語の書籍翻訳も、その分野ならばそこそこニーズがあるにもかかわらず、引き受ける人が少ないのだと思います。私に話が来るほどなので。
といってもそういう翻訳がバリバリ出来るぐらいなら、その分野を専門職としてとっくに生計立ててますよね。
とはいえ、依頼が落ち着いたら、中学あたりから生物・化学・物理・数学を基礎からやり直したいと最近思うようになりました。
基本、私の場合、どの分野も専門ではないので多かれ少なかれ、付け焼刃的な対応ではあります。あんなにえらそうにフランスの話書いてますが、あれも適当といえば適当なのかも。
私はフランス学(???)の学位しか持っていません。卒論は一応ジェンダー関係のテーマでした。今は私の母校もフランスのみならずフランス語圏についての勉強ができたり、副専攻がマストでしっかり研究できたりするようですけどね。同じ大学行くにしても30年遅く生まれたかったぜ。
あとジャズ研に入り浸ってる場合じゃなかった。

とにかく理系の仕事はとてもきついです。読んでみてくださいというだけの仕事であっても。
知らないことが多いので、圧倒的に調べものに時間が使われてしまう。生物学「程度」の話だとしても。物理でもう頭が痛くなり、数学だときっとおかしくなる(さすがにあの本は共訳でしたけど)。
通信とか独学ですと意志が弱くてコミットできないから、できれば教室に通いたいものです。でも意外と社会人向けの講座って少ないですね。
2年ほど前、もう翻訳業界からは干されたと思って、NHKラジオのロシア語講座を1ヶ月ほど聴いていました。ひとつには割とフィギュアスケートが好きだったから。面白いネタってロシア発のことが多いんですよ。でも、フィギュアスケートに限らず、日常会話ぐらいのロシア語の読み書きが出来ると、きっと楽しいかなと思ったんですね。実は日本から近い国ですし。

とにかく、全然自分の人生にとって役に立たなさそうなことを趣味にして打ち込んでみたかった。キリル文字読んでみたかった。
気分を変えたかったんでしょうね。
でも続きませんでした。時間があればあったで、結局子供のことに余分に時間を使うだけで疲れてしまって終わっていました。体力と気力が戻ったらと思っているうちに、なぜか色々とまた仕事が舞い込むようになり、そのままになっています。
さて、どうしたものか、理系の基礎を教えてもらうとなると、うーむ、放送大学の面接授業かしら……
もう息子の学校に私が通いたい……。理科クラブとか登録して私が実験したい……。
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唯一大学で学んだ「専門的」なことにほんのわずかながら関係があったのは、この本の翻訳のときですね。
E・バダンテールのXYをもとにした「男性学」のゼミを学部生の頃に受けていました。
なので、そのバダンテール先生にこの本についての質問のお手紙書いて返事もらったときはうれしかったな。



あら、とうとう品切れで絶版みたい。Amazonだと新品の本がプレミアついてる……出品したら売れるんですか😶





2018-08-30

感謝しかないざんねんな中二病的な思いすごし

一年に一度、お盆休みの頃に夫のお友達二人が遊びに来てくれます。うん、我が家の中まで入る非常に数少ない大人たちかもしれません。

そのうちの一人は外国在住で外国でお仕事をしている方なんですけど、外国といっても多くの日本人が暮らし、働いている都市にお住まいなので、会話の日本語はよく耳にしていらっしゃるようです。

でもちょっとした言い回しに違和感を覚えることはあるらしいんです。たとえば

「感謝しかありません」

と今の若い日本人はそういう言い回しをする、と。そんな言い方日本語であったっけ?と。

実は、そんなに変な日本語かな?、ああ、でも確かに最近の言い回しかもしれないと、そのときは思ったのですが、お帰りになった後、確かに本来の文脈からすると

「感謝してもしつくせません」とか
「感謝以外の言葉がみつかりません」とか

おそらくかつては言ってたものが、

「感謝しかありません」

に集約されたのかなと思い至り、膝を打った次第です。

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動物学者さんが「ざんねんないきもの事典」というタイトルに大変気を悪くされたようで、ごもっともなことをTwitterでツイートされていましたが、それを読んで「あれ?」って思ったんです。

たぶんこれ、うちの息子は「ざんねんないきもの」の「ざんねん」という言葉にそこまでネガティブな意味は感じていないはずと。

「残念」じゃなくて「ざんねん」という平仮名書きというところも、このタイトルをつけた版元や営業の方々、編集者さんたちのこだわりだと思われますが、実際、このタイトルをつけたのはこういういきさつがあったからだそうです。





この記事とおなじところの引用になりますが……
「生き物に関するこれまでの本は、“すごい”という面から見たものが多かったように思います。ちょっとざんねんに感じてしまう……けれども一生けんめいいきている、そんな新たな一面を知れば、生き物たちがより愛おしくなるのではないでしょうか」

「頑張っているのに、ちょっと惜しい!」といったニュアンスなんでしょうね。で、そう思われること自体が侮辱的という考えも言う側と言われる側で温度差があるかもしれないので、ううむ、これはきちんと我が子にも、言われる方はかならずしも「いい意味」や「励ましの意味」で取らない可能性があるということを教えなければ。

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もっと個人的な話になりますが、私の父が亡くなる1ヶ月ほど前に父が母のことをあることを言ってたのを思い出しました。

実は私は彼の直接的な身内のなかでは、亡くなる前1ヶ月間最も頻繁に直接顔を合わせ、話をしていた身内だったので、亡くなったときはそりゃあもう母をはじめとして親戚から「なんで(死にそうなことに)気がつかなかったの!」という非難の目を浴びたわけです。
…しかも母には言葉でしっかり「気がつかなかったあんたのせいだ」「なぜそこまであんたは鈍いのか」と非難されたわけなんですけど、ともかく亡くなる1ヶ月程前にもう別れて10年以上もたつ母のことを、私に父は話したんですよね。こんな感じ。

「お母さんはな、美人でおしゃれだし(……私は似なかったな)、気が細やかだし(……私は似なかった)、字も綺麗で(……私は似なかった)、料理も上手で(……私は似なかった)、はっきり言えばすごくちゃんとしているんだ。だからなあ、ちょっと何か言われると、『必要以上に』自分が『責められてる』って思ってしまうんだな」

ああ、今この言葉思い出してよかったな~って思いますね。これ、私の言動に対する注意だったんですよ。
私に言わせれば、なんでそんなことぐらいで気を悪くするのってこと多いんですよ。
なんで逆ギレされなきゃいかんのだと。
仮に自分のことだと思ったとして、指摘されたちょっとしたことを自虐的なギャグに落とし込んでもらえないというか。

私は決して母に感謝してなかったわけではないし、むしろ感謝はしてるんですよ。
でも、きっと「感謝される」こと、「愛される」こと、「称賛される」こと、「良い評価を受ける(自分のやったサービスの対価を受けることも含めてね)」こと、すべて違うことなのに同じこととしてごっちゃになってる人って、母に限らず世の中案外いるのかもしれないなと思った次第です。

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そういえば、私の息子の小学校高学年のころのあだ名は「中2病」でした。
本人もそう言われることによってちやほやされることが気に入ってて、周りからあてがわれたキャラに自分をあえて当てはめていたように思います。
担任の先生も三者面談でネガティブな意味でその言葉をうちの息子には使ってなかったように思います。
嘘偽りなく、息子はそのキャラで学校で愛されていたと思います。

けれども、いつか限界がくるんですよね。
そうした価値観の反転も、どんなに私のように常識が嫌いであっても、社会の常識というものの枠内で暮らしている以上、限界があるといいますか。

私の目には自分の息子の素の姿は、いわゆる本物の「中2病」キャラとはかけ離れているようにいつも映っていました。
具体例を挙げることは控えておきます。

ただ、それについては彼が中学生になってから、地元から離れた学校に行くようになってから繰り返し息子に話しました。「中2病」が本当にポジティブな意味だと思ってるなら、それは考え直した方がいいと。

わざわざ中2病キャラを演じることはないし、自分が中2病だと思い込むこともない、と。

ローカルルールがほかの地域からもお子さん方がやってくる学校では必ずしも通用しないことがあるということを。

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アメリカの大ヒットシットコムシリーズ、ビッグバン★セオリーのシェルドン・クーパーを演じているジム・パーソンズがCNNのインタビューでこのように話していました。

We are easily offended right now, and frequently about things that are ultimately and probably not that important.
いまやみんなしょっちゅう簡単に気を悪くしますよね。結局のところ、おそらくそこまで重要でもないことに対して。 

どういう文脈で語られているのかは、その動画貼っておくのでご確認ください。



この動画で補足説明をするとしたら:

まず、インタビューのテーマであるリバイバルした「ロザンヌ」シリーズのキャンセル問題については以下の記事をご参考に。ほかにもネットで「ロザンヌ」「打ち切り」とググればたくさん記事が出てきます。










それから、ジム・パーソンズ自身はビッグバン★セオリーに出演している俳優たちのなかではわりと異色のキャリアを積んできた俳優で、舞台でも古典を中心にやってきたらしく、それまでTVドラマにはほとんど出演していませんでした。ぼちぼちテレビドラマのオーディションも色々受けるようになったなかで、このシェルドン・クーパー役に抜擢され、その怪演で大当たり。また、数年前に、長年男性と付き合っているということをメディアに書かれたようなのですが、本人のリアクションは淡々としたもので、しかも1年ほど前には、その長年付き合ってきた男性と同性婚をしています。この動画でも、インタビューでオープンに話しています。

シェルドン・クーパーという役柄は、雑にまとめてしまうといわゆるアスペルガー症候群的な天才役です。人の心を読むのが苦手、自分の決まったルーティンで生活できないと動揺する、自分の専門分野はもとより何についてもやたら博識、記憶力がやたらいい、自分よりも頭の悪い人にはがまんならないしそれを隠せない、人の言葉に表裏がある、つまり嫌み"sarcasm"がよくわからない、自分が言ってることもいくら真実だとはいえ、嫌みに受け取られかねないことがわかららない……そんな性格なのに、出身地はイースト・テキサスという進化論も教えないような保守的な土地柄。母親も信仰心篤いクリスチャン(だけどテキサス人の血気盛んなところもある)。そんなこともあって、大人げないことばっかり言ったりやらかしたりするのだけど、それなりに納得できれば素直だったりするなかなか味のあるキャラクターなのです。

なお、ジム・パーソンズ自身もテキサス出身だそうです。

そしてビッグバン★セオリーの主役のレナード・ホフスタッター演じるジョニー・ガレッキもかつてのロザンヌシリーズに出演(ロザンヌの娘の彼氏役)、その、ロザンヌの娘役を演じたサラ・ギルバートもビッグバン★セオリーではレナードのカルフォルニア工科大学の同僚として何度かゲスト出演していますし、シェルダン・クーパーの母親メアリー・クーパー役のローリー・メトカーフも、ロザンヌの妹ジャッキー役としてエミー賞も受賞しているらしく(最近では映画『レディ・バード』の母親役でも評判が高かったようです)、ジム・パーソンズがいっしょに仕事してきた俳優たちが、リバイバルしたロザンヌシリーズに出演しているというのにこの騒動に巻き込まれてしまったという背景もあります。

実際にインタビューをみてくださったほうがより正確で確実なのですが、ざっくり要約しますとこんな感じなのかなあ。
逐語訳ではなく聞いたことを頭の中でまとめた要約ですのであしからず。

💬💬💬💬💬💬💬💬💬

(どうしたら人々を怒らせないで仕事を失わずにいられるにはどうしたらいいかとの問われて)

自分自身はいわゆるコメディアンではないので、何か面白いことを自分で考えて言わなければならない立場ではない。けれども、今のひとたちはすぐに気を悪くしてしまうように思える。結局のところ、そんなにたいしたことではないことなのに、頻繁に気を悪くしてしまう。

合衆国大統領でさえ、SNSで言いたい放題言っているなか、いまやそういった(過激な)発言するのに芸能人である必要もない。国民の投票で選ばれた人だから、何を言おうと人々は聞き流すのに、今回のロザンヌ打ち切りの件については、いきなり仕事がなくなるのだから、ひどいことだ。

どういう理由であれ、番組が打ち切りになるというのは大変なこと。実際、自分のドラマでいっしょにやってきた人もあのシリーズでは仕事をしているし、自分が直接的に知らない人であろうと多くのスタッフも働いているのにひどいと思う。

ローリー・メトカーフについても聞かれるまでもなく素晴らしい、そしてとても面白い俳優で(actorって言っていたと思います。今はactressとは言わないんですかね)国宝のような存在。もちろん彼女が主演の番組だってこれまであったし、仕事が与えられ続けるべき人。


(彼自身は同性婚をしたほどだったけれども)自分自身、住民は教会に熱心に通うような価値観のコミュニティのなかで育って、そうした人々には何か困っている人がいたら助けたいとか、周りの人々を気遣う優しさがあることも知っているし、驚くことに自分の中にもそういった「保守的な」価値観があることに気づくことがある。実際、結婚したのも、それが「意味があること」にはかわりないわけで、自分の父母のように「合法の」カップルになったんだとうれしかった。

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ロザンヌシリーズはどうも夫役のジョン・グッドマン中心にロザンヌ・バー抜きでスピンオフを作ることになったらしく、また、ビッグバン★セオリーは9月からのシーズンがファイナルだそうです。12年間つづいたのかな。全米でも屈指のロングランになったシットコムだそうです。

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許せる・許せないについては最近、いろいろな記事や本を読むことが多かったので、別立てにしようと思います。

ところで「ざんねんないきもの」の影響ってすごくありまして、いまや、「せつないいきもの」とか「どんまいないきもの」とか「泣けるいきもの」とかいろいろあるんですね。本の売れ行きの半分ぐらいは「タイトル」にかかっていると日頃実感しているので、思わず笑ってしまいました。







2018-08-19

「明治だから」なかなか読み進められない

……というようなことを、ひとり息子に言われまして、『坊っちゃん』を自分のKindle Paperwhiteにダウンロードして、「わからない単語はこうやってハイライトしたらほら、辞書がポップアウトするでしょ? だからさっさと読んじゃって」と渡しました。

国語の宿題だそうです。それでも正直に私に「表現がわかりにくい」と言ってくれてよかったと思っています。だらだらと意味不明のままなんとなく読まれても意味ないし。それに夏休みだって時間も限られているのだから、もうちまちま国語辞書を手にして意味を引いてられないでしょう。

iPhoneやiPadのアプリよりもKindle端末のほうが辞書をポップアウトさせるやり方をするなら読みやすそうですし。

それでも私がかつて、やっぱり中学生ぐらいのときに読んだとき、夏目漱石の文章って、そんなに違和感あったかなと思ったんです。で、冒頭の部分から読んでみたら、ああ、こりゃだめだわと。

すっかり私も現代語に毒されてしまったようです。読みやすい文章にしか慣れていないと、旧仮名遣いでもないのに明治時代の小説もしんどくなるんだなと。

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さすがに青空文庫に載っているような版であれば、Amazonでも電子なら無料です。


2018-08-11

出版されている書籍には色々な権利がございます。

8月10日予定通り出版になったようです。よろしくお願いします。



正確には9年前に一度出版され、大変日本では好評だったしかけ絵本ときいておりますが、このたび別の翻訳者から新装版が出版されました。その別の翻訳者というのが私になります。



まず、翻訳者が決まるまでに時間もかかったようです。
たとえばどういう翻訳者に頼みたいかという本音も依頼主さんにはあったようです。
ただ、この業界、つまり出版翻訳者も平均年齢がどうやら高齢化しているんですよね。
通訳業界も高齢化しているようだと先日ある友人から聞きました。
その友人はほんと優秀な人で、それを「落ち着いた年齢の方々が多い」と表現していました。
こういう言葉がすっと出てくる人、そしてそうした言葉を使えるのと使えないので、社会で出来る人とそうでない人が違ってくるのだろうなと心から感心しました。帰宅後メモしたほどです。

この大変なご時世、共働きじゃないとやっていけないと言われているこのご時世で、やはり若いうちは安定した生活の基盤が必要です。
つまり今の書籍出版翻訳の仕事は条件的に、とくに経済面において若いうちからそれに特化した形で仕事をするのはなかなかできるものじゃないと思います。それが現実です。たとえば若いうちに相当働いておいて事前に貯金をしておくとか、私のようにもはや生活費を配偶者に依存しているとか。実家暮らしでとりあえず雨風しのげて食事も確保されてるとか。
あるいは同じ業界だとしても別の翻訳者のマネージメントも引き受けたりしているなど、ほかのちゃんとした本職があるとか。翻訳とは別に執筆活動しているとか(それでも厳しいと思いますけど)
特にアカデミックな世界だと本業は研究者だったり。ただ、いまは兼業ではやってられないほど与えられる時間も少ないので兼業で「書籍」の翻訳をやっている方は少なくなったように思います。

私はこの仕事をやりたくてやっているわけですが、こういった条件がなければフリーランスとしてはここまで長い間続けることはできなかったでしょう。
それは以前のエントリにも書いたとおりです。

そうした状況を承知のうえで、私はお引き受けしました。
ある意味においていままでで一番苦労した仕事と言っても過言ではありません。

版権は切れていても翻訳著作権は?キャラクター名の権利ってどこまでがどうなっているの?……
こうしたことも勉強になりますね。
私まで話が来るまでにいろいろな介在があったわけですけれども、実際に作業中に一番その点を気にしていたのは、受注した私だったのかもしれません。
私が心配性なのか、悲観的すぎるのか、実は取り越し苦労なのかと思ったほど、違和感がなかったといえば嘘になります。

この業界ではかれこれ10年以上? 版権が切れた原作、あるいは翻訳著作権も切れた原作を別の翻訳者で出版すればある程度の売り上げは見込めるのではないかという出版モデルがあります。

旧版はとてもすばらしい翻訳絵本でした。旧版をご存じの方にとってこの新版の訳文がそれ以上になったと思えるかといえば、翻訳者の正直な気持ちと立場としては難しいです。

けれども、与えられた時間も含めて、制約があった中ではかなりベストに近いものにはなったのではないかと、個人的には思っています。
私が出来る範囲で、私の考えなりに、子どもたちとその親御さんたち、いまは保育者は親御さんだけではないですね、子供たちにかかわる大人たちの助けになるような本にしたいと思ったその気持ちには、嘘はないです。フェイク入っていません。
私自身、子供はひとりですがいるにはいます。ずいぶん大きくなりましたが、完本を見たら、保育園児や小学生の頃の「さわれる まなべる えほん」シリーズのように、ニコニコしながら喜んでくれそうです。よい原作とかわいい挿絵の絵本には、どんな年齢の人であっても心を癒やす力があるようです。

前作は大きいお友達向けの本で、まだお読みになっていない方は今からでも遅くないので是非お手にとってみていただきたいのですが、今回の本は読者の想定対象年齢が大幅に下がっております。どうぞよろしくお願いします。

小さなおともだちはこちら



大きなおともだちは相変わらずこちらもよろしくお願いします。


中ぐらいのおともだち向けにもなりそうな本は待っててね。

2018-08-02

2018年フィールズ賞……フランス人受賞者いないのになんでフランスメディアが採り上げていたのかなと思っていたら……

もともと左の二の腕のひっかき傷をハイドロコロイド絆創膏で治そうとしたのですが、その傷は治るんだけど、絆創膏の周りの皮がむけてしまうんです。だから、その皮がむけた傷にハイドロコロイド絆創膏をあてて治すわけですが、その絆創膏の周りの皮がむけてしまい、その傷にハイドロコロイド絆創膏をあてて治したわけです。で、やっぱり絆創膏の周りの皮がむけてしまったところで、やっぱりハイドロコロイド絆創膏は私には合ってないんじゃないか、と思い至りました。

よく考えてみると、左の二の腕のみならず、ほかの箇所も同じようなことを繰り返していたような。

40歳過ぎるとがくんと肌が弱くなるのを感じていましたが、45歳過ぎるともうどうしようもないですね。
かさかさかさかさかさかさかさかさ。

保湿は大事です。やれやれ。

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フィールズ賞が発表になったそうです。リヨン高等師範学校時代、セドリック・ヴィラーニさんが博士論文の指導教授をしていたというイタリア人数学者のアレッシオ・フィガーリさんが4名の受賞者のうちの1人だそうです。


『定理が生まれる』の第9章と第32章にファーストネームだけ登場する方だと思われます。当時、訳していたとき、フルネームじゃなかったので誰なんだろと思っていました。 実際にヴィラーニさんが受賞した決め手となった定理、「ボルツマン方程式とランダウ減衰のなんとか…(もはや私はわからなくなっています)」と並行してヴィラーニさんが当時ずっと取り組んでいた「最適輸送理論のなんとか…(もはや何が何だかわからなくなっています)」で共同研究していたようです。



もともとアレッシオ・フィガーリさんはピサ高等師範学校にいたそうなのですが、一緒にお写真に写っているピサ高等師範学校の教授のルイジ・アンブロジオさんがヴィラーニさんのところで勉強するといいんじゃないかと勧めたらしく、リヨン高等師範学校で勉強することになったとかなんとか「受賞式前」のインタビューで話していらっしゃるようです。お二人共同でフィガーリさんの博士論文指導教授を務めたそうです。

フィールズ賞や数学のほかの賞は4年に1度の国際数学者会議で受賞式が行われるので、議員さんになってしまったとはいえ、過去の受賞者ですしヴィラーニさんもいらっしゃったようです。それはもう、うれしいでしょうね。

私の生徒がいまや私の先生です! 生徒が師を追い抜くというのはいいことだとツイートしてらっしゃいました。








お約束で本のリンク。



追記(2048/08/09):よく考えてみたら、フランスで学生の頃から研究していたイタリア人数学者がフィールズ賞受賞、というのはマクロン大統領やヴィラーニさんのようにヨーロッパ主義賛同者にとっては大きなことなんですよね。エラスムス計画のたまものなんですから。

エラスムス計画についてはいまボコボコにされてる文科省のサイトのリンクを貼っておきますね💖



2018-08-01

諦めない力~落ち込んだらKindle Paperwhiteを持って火星で生きるのもありかしら??戦争とフィギュアスケートと自己肯定感の話

先日アップロードしそびれた記事があります。体調が戻りつつあるなか、うじうじしていた気持ちをぶつけるかのようにだああああーっと一気に書いたのでめちゃくちゃ暗いです。

でも、昨日、割と元気になって、火星が地球に一番近づく日だと聞いたので、思い切って外に出ました。
火星を見ながら、そうだ、今日はデヴィッド・ボウイがいちばん地球に近づいてる日なんだと思ったらなんだか楽しくなってきました。しばらく火星は地球の近くにいますが、離れていったら次に戻ってくるのは15年後だそうです。そうすると私ももう60歳を過ぎてしまいます。私はそれでも生きているつもりでいますが、どうなることやら。

なのでしばらくボウイの曲を聴きながら火星を見ていました。

この曲も含めてね。





やっぱり健康と音楽と外の空気は大事です。

このいずれかが欠けてしまうと、だるくなって、気が滅入ってきて、次のような文章をだあああああーって書きなぐる…打ちまくることになります。
結構真面目にリンクを貼ったりしたので、そこそこ手間がかかっているしなあ……。

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週末、夫が作ってくれた麻婆丼を食べてから、なんかお腹が痛くなって少し寝て、起きてからずっとトイレを往復していました。おいしかったのだけど、いつにもまして辛く感じたのは疲れているからだと思います。ただ、それが原因だと思うってなかなか言えませんよね。


もしこれが、夫が私が作った夕食を食べてから、ずっとトイレを往復しているというのならば、きっとそのままフィルタなしに言われると思いますけど、私はそれをそのまま夫に言ってしまったら最後、週末にはもう食事を作ってもらえないんじゃないかと思ってしまうし、そう思ってしまう自分が情けなくもあります。ほんと私、家事全般が嫌いで苦手なんですよ。
ともかく、この人とは決して対等にはなれないんだろうな、という気持ちは、自分が変わらない限り、そう、自分がその人と同じレベルで収入を得るか、あるいはそれ相応の家事や育児ができる立派な妻や母親だと自負できるようにならない限り、一生続いていくのかもしれません。

だからどこかで変わらないと、もっと頑張らないといけないと思うわけです。
年のせいか身体はどんどん動かなくなるのに。
と言いながらも、睡眠時間を削るとそろそろ突然死が気になるお年頃でもあります。

よく母が私の年齢のころ、いえ、ずっと若い頃ですね、そして私がいまの息子よりもずっと幼い頃に「夜眠ったらそのまま起きたくない、そのまま死ねれば最高だ」と私に言ったものです。
幸か不幸か今でも健在ですが。
でも私は、自分にお迎えが来るにしたって、今のところは事故死とか突然死だけは勘弁してほしいです。
身辺整理もろくにできてないのに、死んだあとまで片付けで迷惑かけて夫に頭が上がらないんじゃあの世で立つ瀬がない。

いっそやめて、いまから職替えしたらこのコンプレックスから解放されるのだろうかとか。

嫌いな仕事で収入が少ないのと、好きな仕事で収入が少ないままでいるのと、家族に対してどちらが罪悪感を覚えるかといえば、女性の場合はとくに後者なような気がします。




この春に3年ぶりに実家に帰ったとき、「自分がかけている手間の割にはこの仕事はお金にならない」と、つい母にこぼしてしまいました。
そう言われれば「じゃあ職替えしたらいいのでは?」となります。当たり前です。

実際、母は「りえにはどんな仕事だったらいいんだろうね?」と私に言いました。

両親……とくに母は私にとても期待をかけていました。
家族の中で大学まで行けるだけの学力があったのは私だけでしたし、それどころか、中高も私立に行かせてくれたし、外国にも行かせてくれたし、大学までやったのだから、きっと私は同じ大学に行っていたようなお嬢さんたちのようにきちんとした正社員になって、バリバリ仕事をして成功すると信じていたのだと思います。

ところが、ひねくれた性根と、空気のよめなさが言動に出てしまうんでしょう。
母が期待していたような会社にはどこにも採用されなかった。

「どんな仕事だったらいいんだろうね?」

と、言われた後、私は母に「ごめん、少しだけこのテーブルの上に突っ伏してもいい?」と聞きました。母は何も言わずにうなずきました。

突っ伏して1分ぐらいたったあと、もう大丈夫だと思って顔を上げてこう言いました。

「ごめん、もう私は一生お金持ちにはなれないと思う。申し訳ないけど、お母さんがもし今でもそれを期待しているなら、それには応えられない。でも、やっぱり私いまの仕事が好きなんだよね。やめられない。声がかかったら、どんなに無茶ぶりでもまた引き受けてしまうと思う」

母は何も言いませんでしたが、うなずいていました。これが20年前だったら親不孝だと怒られていたかもしれない。
あるいは、「そんなに好きこのんで自分を惨めな立場に追い込んで自分を傷つけることはない」と言ったでしょう。

「よくやっているよ、りえは」

母の言うことの95%は私にはまったく同意できないことばかりで、正直なんでよりによってこんな人が自分の親なんだろうって子供の時から思っていました。
でも5%はやけに真実をついていたりするもので、どこかで尊敬していたのだと思います。

酒にめっぽう強かった母の言っていたことの一つに「年だから酒がまずくなって飲めないのかと思ってたら、がんだった。酒がまずくなったら、大病が隠れてるからすぐに医者に行くべし」というものがあります。
笑っちゃったけど、その通りだと想像できます。
問題は私が家族の中で唯一、お酒がろくに飲めないこと。
その名言が私の健康管理に全く役に立たないことですが。

お酒はともかく、私なんて足元にも及ばないほど、子供の頃から苦労してきた人なのだから、言葉に説得力もあるし、信じられないほどの窮地に陥ったときに、一人であそこまで強気を保って逆境を跳ね返せる人を私はほかに知りません。
平時だとなんでそういう話の展開になるんだといいたくなるほど、ちょっと変なところはありますけどね。

そして、なんだかんだいっても、母は私の数少ないよさをわかってくれている人です。おそらく、誰よりも。
だって私のことを出来が良くて本当は優しい娘だなんて思ってくれているのは世の中で彼女だけなんですから。
それが完全に的外れであっても。


もともと母は素直に謝れない人でした。小さい頃からそうだったそうです。頑として謝らない子だったそうです。

土木技師として大陸に渡っていた祖父が戦後中国…次回の冬季オリンピックの山の競技をやるあたりよりもさらに奥の方だったそうですが、最初は、国民党だったのかな、で、しばらくすると共産党に、結局トータルで10年も引き止めを食らったそうです。長い間生死もわからない状態だったらしい。
一方、祖母は4歳だった伯母と2歳だった母を連れて3人で引き揚げてきて、造り酒屋の実家にご厄介になっていたころの話は、今どきの親が子どもに絵本を読み聞かせするように母からよく聞いていました。

もう終戦記念日も近いのでちょうどいい話題かもしれませんが、内地での戦時中、戦後の話も、外地からの引揚者の話も、フィルタがかかってないと結構えぐいですよね。

祖母も私の家に来ると引き揚げたときの話をよくしてくれました。

私は「桃太郎」と祖母の「引き上げてくる列車の中で赤ちゃんが栄養不足でどんどん死んでいく。でも列車は止まってくれるわけがない。赤ちゃんの死体をそのままにしておけないから、死ぬとおくるみでぐるぐる巻きにして列車の窓から力いっぱいポーンと投げて捨てる」という話を同格扱いで昔話として聞いていました。「窓の外を見ると、ポーンと投げられて捨てられる赤ちゃんをよく見た」と。
そのポーンという祖母の言い回しが私は気に入ってしまって、何度もその話をしてくれとせがんだものです。
小学校にあがるかあがらないかのころです。

で、その謝れない母に話を戻しますと、内孫と外孫の違いって大きかったんですね。
戦中戦後と親戚にお世話になるときの親戚の嫌みったらしさの話って、極端なものだと火垂るの墓とかありますけど、あながち外れていないように思います。

祖母は肺が悪くて体の弱かった伯母を連れて県庁所在地の大病院によく付き添っていたそうです。だから、母は祖母の実家に、完全にアウェイ状態でほったらかしにされてたそうです。

祖母の実家は造り酒屋だけでなく(お酒なのでね、当然、時代も時代で密造密売もしていたらしいんですけど、その筋の方との交渉はやはり修羅場をくぐってきた祖母が担当していたそうです)手広くやっていたそうで、母はたばこ屋の店番を受け持たされたそうです。小学生の頃は。
もちろんお金の計算間違えてはいけないから必死だったでしょう。

よく、母は自分が小さい頃理不尽なことで私の曾祖母から怒られたと言っていました。内孫より通信簿の成績がいいと、家業の手伝いを疎かにして遊んでるからだと叱られるとか。
成績いいぐらいだからたばこ屋の店番だってこなせたのだろうに。

ほかにもいろいろ母の左利きを嘲る(母は鉛筆もお箸も右手で持てますが、ハサミと包丁は左手のほうが楽だそうです)、正確に言うと右手も左手も同じように使える器用さを小馬鹿にしたりと、子供心に嫌な思いをさせられたそうです。それでもご厚意で住まわせてもらって食べさせてもらってるのだから仕方ありません。

戦後日本の比較的余裕があったであろう地方でもそんなものでした。
だから母は、理不尽なことを言われてる以上、謝ったら負けだと思ってたふしがあります。
うっかり左手でお箸を持ったところをとがめられても、ごめんなさいとは言わなかったそうです。
いまでも簡単には非を認めない。そこは結局、私も似たのかもしれません。

だから、成人して、結婚して、親になっても、非を認めない代わりに、私になすりつけたりもしました。

一番良く覚えている家族旅行の思い出は、母が車のトランクの中に車の鍵を落としたままトランクを閉めてしまったことを父に責められたときのこと。
母がとっさに父に言い返した言葉は「りえがぐずぐずしていて、それに気を取られたから」

学年としては5年下の弟が私にはいます。
年が私の世代にしてはわりと離れてる理由の一つが、私が子供の頃ひどく身体が弱くて手がかかって精神的な余裕がなかったからというもの。父もここぞというときは出てきてくれましたが、育児家事全般ほぼノータッチでしたからね。そういうことを私に口にしてはばからない母でした。

実際、私は4歳の時、2ヶ月ほど昔で言う肋膜炎、正確には胸膜炎で入院したことがあります。
今思うと、伯母が私を割とかわいがってくれたのは、子供の頃、肺が弱かった共通点があったからなのかもしれません。

ともかく幼稚園に通い始めて5日目に体調をくずして、その後入院する羽目になったようです。

大病院の小児病棟では2ヶ月の入院なんて軽い症例(だと周りの親御さんたちにうらやましがられたそう)ですが、今思うと、弟を身籠ってた母にとってはえらい目にあわされたことになります。
最終的な入院先が電車で片道一時間以上かかる都内の病院でしたし。
やっと一人っ子の私が幼稚園に行くようになって少しだけほっとしただろうに、むしろもっと手間がかかることになったわけです。

私を育てていて、手放しでいい思いはしなかったのだと思います。
女の子なのに、たいていの場合、不機嫌そうでふてくされてるし。
ごくたまに私が笑っている奇跡的な写真があったようで、それは母は今も大事に飾っています。

ともかく2歳か3歳の頃、親にはいやだとかネガティブな意思だけははっきり示すのに、まったく他人と話が出来ず、この子は自閉症なのではないかと心配になって、専門家にみてもらったこともあるそうです。
4日間通った後一度リタイアしてしまった地元の幼稚園も、いわゆる面接でひとことも喋らなかったために一度落とされたのを、知り合いが掛け合ってくれて入れてもらったとかで。

ずっと後になって、父が亡くなり実家を手放さざるを得なくなったとき、次の住まいには入らないので、色んなものを処分しました。すると古い書類の束からそのときの資料が出てきました。
おお、話に聞いていたのはこれかと。
身辺自立が遅れている、年相応の常識がともなっていない、みたいなことが書かれていたかな。
今も昔も自分で何かやるにも手先が不器用なんですよ。

それでも発達に異常はないということでしたし、むしろ記憶力は割とよかったんですよね。
自分が何か買ってもらうとその日付を全部覚えていたり。
鉄道好きな子供が全部電車の名前を覚えてしまうように、私は日付を覚えるのが好きだったので日付を覚えていました。

いま、こんなに物忘れがひどいのが信じられないほどです。
たとえば歯医者さんのアポをこれまで何回忘れてしまったことか。自分の分も息子の分も含めて。
もうこれ以上忘れてはいけないほどの回数です。次やったらもう合わせる顔がありません。
だから今週は絶対に忘れちゃいけない。

なんでしょうね、ともかく、私は弟よりは勉強は出来る子として期待されていたかもしれないけれど、弟ほど無条件には愛されてはいなかったんだろうなと思ってしまうことはよくありました。

そんな母ももう年老いて、さすがにわかったんでしょう、自分の娘が理想とかけ離れていても、嫌な思い出を想起させるようなタイプであっても、娘であることには変わらないと。だから「出来が良くて本当は優しい娘」だと思ってる。

さあ、話は戻りますが、「よくやっているよ、りえは」と言った母の言葉ほど、これまでのどんな言葉よりもほっとさせられたことはありません。
でも根拠のない自己肯定感を持つには遅すぎたかもしれない。

そしてよくもまあ、夫はこんな私を見捨てないと思います。
いい年してだらしなくて常識のない手際の悪い妻。諦めているのだろうけど、見捨てはしない。

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さて、先日のAmazonプライムセールでKindle Paperwhiteを買いました。ギリギリまで悩んで調べた末、むしろ広告付きの方がおすすめとか出てくるわけで面白そうだと思って、広告付きの割引率が高い方を買いました。
読書中には広告は出てこないというのも決め手でした。
広告付きの欠点はよく指摘されているように、スリープ状態から読めるようになるまでに2ステップ挟まなきゃいけないことですけど、そのことはあまり私は気になりません。

当然ですけど、iPadよりははるかに軽いし、読みやすいし、なんでもっと早く買わなかったんだろうと思いました。

で、わりとフィギュアスケート好きなもんで、思わず買ってしまった電子書籍がこれ。




浅田真央、小塚崇彦、安藤美姫、村主章枝、佐藤有香らトップ選手を育ててきた名伯楽・佐藤信夫。コーチ生活50年となる著者が、自身の65年にわたるスケート人生を振り返り、さまざまな出会いから導かれた教えを伝え残します。あまたの正念場での決断、粘り……初めて明かされる秘蔵エピソードが満載です。

あっという間に読めてしまった。そういう意味では、映画よりも高くついた娯楽かも。

でも、保護者としてであれ、指導者としてであれ、子供に接し、なんというか子供を導かなければならない立場の大人にはわりとおすすめできる本です。

そう、浅田真央は最後、傍目にはボロボロの状態で引退することになったかもしれません。
でも、ソチ五輪から復帰後には、苦手なルッツがeじゃなくて!と評価されるようになったりしてたようですし、最後の試合はたしかそうしたマークがつかなくなった試合だったのではないでしょうか。細かくは覚えていませんが。

「やりきった、悔いはない」と彼女が会見したのはそれが大きかったのかもしれませんね。

佐藤信夫コーチが浅田真央についてアクセルじゃなくてルッツの話を一番感動したことだと引合いに出したということが、なかなか興味深かったです。

見てる人は見てるんですね。そして諦めない人は諦めない。
コーチだからこそ、じゃなくて、親だからこそ、でもなくて、見てる人は見てるし、諦めない人は諦めないのかもしれません。

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追記(2018/08/12): 

買ったのはこのモデル↓ 



いままで私はAmazonで購入した電子書籍はおもにiPadのKindleアプリで読んでました。
もちろん、カラー版の電子書籍はiPadなどカラーで見られる端末のほうがいいです。
けれども活字として読むならば、こちらのほうがもう読みやすくてたまらない。
自分でアップロードしたPDFも文字の大きさ変えることができるんですね。これが意外とありがたくて。
つまり出先でもどこでも、仕事でわたされた原書のPDFをさらさらと読めますし。

身体が動かないときは寝っ転がりながら、とりあえずこれ持って次の訳す部分を読んでおけるのもありがたい。

電子書籍の著者への還元率は出版社経由だと高いとはいえないのはわかっているんですが、もう、この便利さにはかなわないです。iPhoneやiPadだと意外と電子書籍は読まないんです。
そして高度にカオス化した狭小住宅の我が家の場合、もうここに興味ある本をぶっ込んでおけばどこに置いたか考えなくてもすむのもストレス解消になります。

なんだかんだ言うわりには買いあさってますので、ますますお金が飛んでいくんですけどね。

財産は誰かにとられることがあっても、頭の中に入ったものは誰も奪うことができない……と実感しているので、収入が消えたって頭の中に何か知識が残るならいいです。

これから使い倒して、読みやすいようならクリスマスか誕生日に息子にプレゼントしようかなと考えたり。
広告付きで全然OKですよ。

2018-07-25

完全にネタバレはしてます。『万引き家族』を観に行きました。




ひとつひとつのセリフ、シーンがその時点で受け止めたこととはちょっと違う意味をもっていて、あとになってそういう意味だったのか!と膝を打つつくりになっているので、ぼんやり観ていると、よくわかんないまま終わってしまうかもしれません。

最近の映画は1コマに込められる情報量が多くて、私はあまりついていけないのですが、幸いにしてこの映画は進行がものすごく早いタイプのものでもないから、あらかたはわかったと思います。

いやあ、やっぱりすごい映画だった。あの構成力は、ただただすごいです。

以下完全にネタバレしてますので、ここで引き返すなら引き返して下さい。



繰り返しますが、めちゃくちゃネタバレしています。ここまで書いちゃうのまずいかなとも思うのだけど、今の段階だと、たぶんリピーターの方が観に行くんじゃないかなと思うので、もういいやと。時系列で書いていないし。忘れる前に書いておきたいなと思ったほど感心した映画だし。

なので、ネタを知りたくなければここで引き返して下さい。今です。



























それにしてもこの映画の脚本すごいですね。『万引き家族』というタイトルから「モラルのかけらもない育ちの悪い人たちの貧困生活(をどうせ美化したものなんだろう?)」という先入観を持たせておいて、最後の最後までその先入観を裏切っていくのだから。


たとえば、前半の家族のようすを描いているところで、「男の子」が家族のために万引きしてきたメリットシャンプーに文句を言う「おねえさん」は、決して万引き慣れした結果の贅沢を言っているわけではなかったことがあとでわかる。

これはむしろ「自己責任」を選んだ人たちの物語。しかも、そうせざるを得なくて選んだというわけでもない。犯罪をしながらであっても家族の絆がほしかった人たちの話。


だから貧困や犯罪行為「そのもの」を単純に美化した映画ではない。いくら現実にあるような事件がたくさん盛り込まれていても、リアルに描いたのではなくて、ファンタジーなんです。

既に指摘されていることですけど、「おばあちゃん」の年金が確実な収入源としてあてにされてるとはいえ、「父親」も日雇いで働いているし「母親」もクリーニング屋の工場で働いている。働いてはいる。といっても不条理で不公平な理由で、そう、正社員と非正規社員の待遇格差がそもそもの原因で働けなくなる。会社は正社員は首を切りにくいし、保証も法律に則っていなければならないから。でも日雇いやパートはそうじゃない。ああ、同一労働同一賃金ってなんなんでしょう。

あの男女はきちんと籍を入れているわけでもなさそうし、だとしたらあの父親の年齢と状態で「一人暮らし」ならば生活保護もらうのだってできるだろうに、そうはしない。
実際、「父親」には前科があることが後半明らかになります。
だったら、かえって生活保護もらうのは簡単だろうし、すべてがばれて疑似家族がバラバラになったあと、しばらくたったあとのシーンでは、「父親」はどうも生活保護によって「お風呂だけは新品」の郊外のアパートで暮らしている様子が描かれています。

でもそうしなかった。優先順位が違ったから。優先順位の一番上にくるのは分不相応な物欲などではない。だいたい分不相応だろうと他人は知ったこっちゃないんだけど、実際、全然、まったくそうじゃなかった。

なぜ社会扶助を選ばなかったか。「家族」を手放したくないから。一緒に暮らしたいから。本物の家族じゃなくても、「社会」より家族の絆を信じたかったから。そしてその根拠はきっと、日本には社会扶助というものがある、ということをもはや信用できないような経験をあの男女……とくに「母親」はしてきてるから。社会は助けてくれない。

そう、死亡事件が起こるたびになぜ行政は助けられなかったのかと話題になる児童虐待……そのなかでもネグレクトについては、この映画では程度の差こそあれ、少なくとも3つのケースが出てきます。(実際には4つほのめかされているわけだけど、4つめはそれは想像させるものなので省略)

まず、予告編にもあるあの小さな女の子。パートナーからDVを受けている母親の恨みのはけ口になって、冬の寒空に何も食べさせてもらえずパジャマのまま団地のベランダに出されて家の中に入れてもらえなかったり、腕にアイロン当てられたり。体は傷痕だらけ。「産みたくて産んだわけじゃない」と思わず母親が口を出してしまう子供。でも「保育園に行っている」とニュースに出るぐらいなので、母親も働いているようです。

この「万引き家族」の「おとうさん」が、寒空に空腹のまま団地のベランダに放置されている女の子を見かねて家に連れ帰って夕ご飯を食べさせてやることにしたのが話の発端ですが、「おばあちゃん」はすぐに体の傷痕に気づきます。その女の子が優しくされた思い出、心のよりどころは「天国にいるおばあちゃん」が作ってくれたくたくたに煮たお麩だという。それが大好き。でも、その子が最終的に実の家庭に戻されたときに、母親が作ってやったと自称する食事はオムライス。事実だとしても、マスコミからの質問の手前嘘を答えたにしても、自分の子供の好物もよくわかっちゃいないということがそれだけでわかる残酷さ。

とはいえ、最後に、またもその女の子がベランダから、ガラクタが入ったビンを大事に脇に置いて、外を見ようとするそのまなざしから、万引き家族との思い出が、天国にいる自分のおばあちゃんとの思い出と同様、その子のよりどころになったことが伝わってくるんですね。まったくもってすごい撮り方。

この女の子はそれまで本当の家族の元に帰るチャンスがあったのに、あえて万引き家族との生活を選んだ子でした。


そして、その万引き家族との生活を終えた後、実母の「服買ってやるから」という言葉が、軽薄なものだとわかってしまった。
万引き家族の「おかあさん」が、この子は髪の毛の色からするとこっちのほうが似合うんだよね~まいったなあ、頭をかきながら楽しそうに似合いそうな水着や服を選んでやって万引きする……そんな思い出もあるし、その「おかあさん」に「『服を買ってやるという言葉は、その言葉に乗ったら最後、あとでいちゃもんつけられて暴力をふるわれることを意味しているわけではない」と教えられたから。

「おにいちゃん」が自分の手で生活を変えたように、それまではこの女の子にはなんとか生き抜いてほしい。かなりやばい状況のはずなのだけど、この子はもしかしたら生き抜けるかもと思わせる撮り方をしているように私には見えました。
身内ではなく、他人に損得抜きで助けられた経験がある子のほうが実際は強いのかもしれないと。そう、本当ならば家族よりも社会のほうが困っている人を助ける力があるはずなのです。でも、制度的な話なんか抜きにして、この国の国民性としてそういう社会であるのかは疑問を感じずにはいられません。

つまり、この映画は日本の行政制度の不備を責めているとも限らない。仮に、その手の問題提起をしているとしたら、それを見ない振りして関わろうとしない「ふつうの人々」の欺瞞に対してなんじゃないのかな。

2つめは、その子の「おにいちゃん」のケース。学校にも行かせてもらえず(「学校は家で勉強できない子が行くところだ(おまえは家で勉強できるのだから行かなくていい)」と教え込まれている)、唯一「父親」が親として教えてやることができた処世術だという万引きをする男の子が、どういういきさつであの家族のなかでいることになったか、最後の最後で「母親」によって観客に明かされます。

男の子はお店で万引きすることについては「まだ持ち主が決まっていないものだから」という「父親」の理由に納得していたけれど、物の持ち主が決まっている車上荒らしを教わることは拒絶するんです。それでも「父親」が捕まらないように一応見張りはしますが。そして一緒に逃げながら「ぼくを助けようとしたからだったの?」と。「父親」は目が泳ぎながらも肯定する。

「父親(と「母親」も?)」がパチンコ屋の駐車場で車上荒らしをしていたついでに、幼い子供が暑い中車の中で放置されていたのを助けたのに、その成長したその子供は、車上荒らしを目撃することによって、軽犯罪を繰り返す生活から足を洗いたくなるきっかけになってるという因果がすごい。

そして、この子が唯一のこの映画での希望でもある。この子だけが、家族といっしょは居心地はいいかもしれないけれど、この生活から抜け出さなければならない、社会に出なければならないと思って、自ら実行したのだから。施設に送られた後、一生懸命勉強していることがわかるせりふが色々あります。

そして、男の子が「わざとつかまった」と告白したその気持ちを、最終的には「父親」も、そしてその男の子を拾ったいきさつを詳しく説明した獄中の「母親」も察して、この子を解放してやります。いや、男の子がつかまったときに病院に置き去りにしたつもりだったけど、もうあのとき既に解放していたのかもしれない。

再会した「父親」は「もう(おとうさんじゃなくて)おじさんにもどるわ」と男の子に言います。「母親」はその子を拾ったいきさつを説明して、本気出せばその情報で本当の両親も見つかるとまで断言する。

「父親」も「母親」も両親になることを諦めることによって、この子にとって両親になる。だからずっと言えなかった言葉も、もう「父親」には届かないその言葉を男の子はバスの中で口にする。

病院で「自分を置き去りにした」万引き家族について刑事に質問されているときに、男の子は学校に行く意義を尋ねます。刑事は「勉強のためだ」とは言いません。「人と出会うため」と答えます。

それまで男の子にとって、家族以外との唯一の「人との出会い」、「社会とのつながり」は駄菓子屋兼雑貨店でずっと自分の万引きを実は見守り続けていて、「いもうと」が万引きをまねたときに別のお菓子まで持たせて「いもうとにはさせるな」と声をかけた店主のおじさんでした。そのおじさんも夏に急に亡くなって、古びた木造の自宅兼お店は閉店してしまう。クーラーなさそうだったし、ほんと熱中症問題深刻よ。

でも、その経験があったからこそ、刑事のその言葉のポジティブな側面に納得して男の子は施設に行くことにしたのでしょう。けれども果たして私たち大人は、たとえば学校とは「人と出会うため」と断言できるのでしょうか? そう、学校とは、子供によい影響を与えられる人間関係を学ぶの場であるという責任を自覚しているのでしょうか? 「学校の意義は人との出会い」とはよく言われますが、その言葉の重さ、「家族のなかだけでは人間は成長できない、社会の一員としての有意義な経験も必要だ」という責任を、大人はいま一度かみしめるべきだと思います。

子供のうちに、自分の好き嫌いとは関係ない人々も含めた社会のよさを信じることができなかったら、大人になったときに、ただ自分と自分のお仲間さえ良ければいい人になっちゃいますよ。

私の両親は、地域社会とつながることをどこかで嫌っていました。つきあいが面倒だと言って。うちのこと詮索されたくないからと言って。そしてどんな家庭であるかを、友達という「他人」に話すことも禁じていた。父は毎日家に帰ってくる健全な家庭ということになっていたし。高校生になってもそれは続いていました。
そんなふうに育った私も、この高度にカオス化した家が恥ずかしいからお友達を簡単に呼んでこないでと息子に言ってしまうんですけどね。

学校であれ、家庭であれ、子供の心の居場所のあるなしは、必ずしも貧困問題と関係があるわけでもない、というのは、息子を通じてここ数年、いまもなお、感じるところであります。

それでも、以上の2つの男の子と女の子のケースは貧困問題と関係はあるでしょうね。ですが、3つめのケースはまさに私が一番ぐさっときたところ。
「母親の妹」という扱いになっている20歳ぐらいの「おねえさん」のケース。結構いい家に住んでいる両親が「おねえさん」の妹をかわいがっているシーンが出てきます(そのシーンの見せ方も見事)。
それから「おねえさん」はバイト先のJK風俗で出会った、口のきけないお客さんの自傷の痕をみつけて、共感して泣いて付き合い始めてしまうほど、自分自身にも自傷癖があったのだろうなとわかるようにできている。

冒頭、男の子がシャンプーを万引きしてきたブランドが「メリット」で「おねえさん」はぶつくさ文句を言うシーンで観客は、「万引き慣れして贅沢しているしょうがない若い子」というミスリードされるだろうけど、もともとメリットよりもいいシャンプーで髪の毛洗ってたような家の育ちだからとあとでわかる。

そう、子供に対する「虐待」は精神的なものならなおさら、所得層なんて関係ないことをつきつけられるわけです。

実際、親は高校卒業後家出したおねえさんを『オーストラリアに留学している』と取り繕って、恥ずべきこととして捜索願も出していないように見える。
むしろ家出娘のことをうすうす感づかれてるんじゃないかと思う気持ちも重なって、前夫の月命日だからといってやってくる「おばあちゃん」にお金を渡してしまう(毎回3万円)。

「おばあちゃん」はここまで計算して「おねえさん」を引き取ってたのかどうかは、「おねえさん」にも最後までわからない。だから「おねえさん」が疑似家族が解散した後にもう入れなくなったあの家をのぞきにいくのは、それを確かめたかったからかも、家族愛を確かめたかったのかもしれません。そして、あのお客さんと付き合い続けるのか、実の家族のところに戻るのかはわからない。まずは前者なんだろうなと思うけど。「母親」が「父親」とのなれそめを「あたしだって(出会いは相手が)客だったから」と肯定的に話していたしね。

おねえさんはおばあちゃんが大好きだというシーンはそれまでふんだんに出てきます。添い寝したがるし。海に行った翌朝、おばあちゃんがおそらく熱中症で亡くなったときの悲しみよう。そしてへそくりを「父親」と「母親」が見つけて喜ぶのをみて納得がいかない気持ち。
警察は証言をとるために、おばあちゃんは計算づくで「おねえさん」の面倒を見ていた、あなたの両親をゆするために、とその事実を誘導尋問に使うのだけど。

話が虐待からそれますが、「おねえさん」は実は「おばあちゃん」の夫だった人を寝取った女性の孫ということなのですが、
「おねえさん」の両親は「おじいちゃん(おばあちゃんの前夫)」のお葬式で「おばあちゃん」に初めて会ったというぐらいなので、「おばあちゃん」は本当にその寝取られた女性なのか、なりすましなのか、もはやここまでくるとわからない。作り手もわざと曖昧にして観客の好きなように解釈させているとしか思えない。

両家の仏壇の写真は同じ人になっています。その辺も含めた樹木希林のとぼけた演技も、民生委員に対するあしらい方も、不動産屋にこの家を売ったらあんたにはいくら入るの?と聞いてくる鋭さも、パチンコ玉ネコババするときの真剣な表情もすごい。あの「おばあちゃん」の得体のしれなさが一番の見どころです。しかも途中で話からリタイアしちゃうんだもの。ものすごく気になりますよ。庭の池の話のオチとか。
それにしても熱中症問題、深刻。

これは注意喚起のために、今後テレビ等で放映するならば、是非真夏にすべき映画ですね。

それにしても「おばあちゃん」の家にも、そして駄菓子屋さんにも不動産ブローカーっぽい人現れてたように思いますが、今年のこの暑さじゃ、こうした土地を売らない独居老人たちが亡くなりやすいわけなのだから、その業界の人たち稼ぎ時だったりして。あああ……。

そして「母親」のせつなさ。「産みたくて産んだわけじゃない」と言われるような家に女の子を帰すわけにはいかないと自分の家に連れ帰ってしまうし、「女の子と一緒にいるところを見たけど、解雇を受け入れてくれればそれは誰にも言わない」と仲間だと思っていた同僚に言われて、即座に解雇を受け入れる(その代わりそればらしたら「殺す」からね、という言葉ははったりではないことがのちにわかる)。

この「母親」は自分を「おかあさん」とは自称しない。しかも自分は子供が産めないらしい。生まれつきの体質的なものなのか、西日暮里の店時代のせいなのか、はたまたDVのせいかなんてまったくわからないけど、どれにしたってつらい過去を引きずっているのにはかわらない。
だから刑事に、なぜ子供には実の母親が必要だといわれているのかと問われて「母親がそう思いたいからじゃないの?」と「血がつながっているという理由だけでえらそうな親の傲慢さ」という、真実をものすごく突いた言葉を言い返すのに「じゃあ、あなたは子供たちに何て呼ばれていたの? ママ? おかあさん?」と痛いところ突かれて「なんだったんだろう」ってさめざめと泣く「母親」。

万引きの是非について確か男の子に聞かれたときに「お店が潰れない程度ならいいんじゃないの?」と一応その辺の節度は守ったことは言うのに、女の子の服や水着を万引きするときの見境のなさそうな服の数は、やっぱり女の子には可愛い格好をさせてやりたいという「母親」なんですよ。母親になりたいというね。

「母親」は「おばあちゃんを床下に埋めた」死体遺棄や(でも刑事には、身内に捨てられたおばあちゃんを「拾った」と言い放つ)、それにともなう年金詐欺や、男の子・女の子の誘拐も(女の子の行方不明が明らかになると「身代金要求していないんだから誘拐じゃないでしょ?」という)、「父親が前科者だから」全部自分一人でやったと罪をひっかぶって懲役5年に服すことになりますが、あの疑似家族の明るい生活が持てた幸せを思い返せば「おつりがくるほどだ」と面会に来た「父親」と「男の子」に断言します。そう、それほどまでに、社会よりも温かい家族を求めて、信じ、実際にそれを作り上げていたわけです。軽犯罪に手を染めなくてはならなかったとしても、社会よりも絆のある家族を求めて、自己責任をまっとうした。まったく、たいした筋書きですよ。ものすごいファンタジーです。

よっぽど今の保守の人がそういうこと口先でいってるんじゃないの? やれ親学だの、やれ自己責任だのと。
あるいは、口先ばかりえらそうなこと言ってる割には、マージナルな人々、社会の枠から外れた人たちに対して、行政のせいにするばかりで、さほどの力にもなってない自称リベラルな人々に対する批判にもじゅうぶんとれるよ。

この映画にケチをつけるとしたら、なんだかんだいって演じている俳優たちが樹木希林も含めてどこかで個人として持っている品の良さが出てしまっていることだという人もいますよね。それもあって貧困や犯罪を美化していると。

現実を描くならドキュメンタリーですよ。でも映画は違う。現実なら、車上荒らしをする人も万引きする人も、子供を救わないと思うしね。

くしくも18年前のカンヌ映画祭パルムドール受賞作であるダンサー・イン・ザ・ダークという、あのビョークというカリスマを主演に持ってきて、ミュージカル風にしてるのに絶望的な悲惨さをテーマにした映画がありまして、それにはカトリーヌ・ドヌーヴが同じ工場の同僚役で出演しているんですね。最近のMeTooムーブメントに関係なく、撮影中からビョークは「ひでえ監督だ」と言い切っていたようですが、当時あの監督は作風によって評価されていたので、ドヌーヴ自ら出演を申し出たという話だったはず。で、あの映画を見たある友人が、「工場労働者になりきれないオーラを放ってしまうドヌーヴが出てくると『ああこれは実際の出来事じゃないんだ』と思って救われる」と言いまして。その指摘は非常に鋭いなと思ったものです。

是枝監督の「社会問題的な」映画の登場人物として、みんなどこか潔癖であるか、あるいはこぎれいな感じを与える俳優たちが選ばれているのは、テーマが悲惨だからこそ、そして、どこか物語に「希望」とか「理想」が込められているからこそ、そうするのが正解なんだと思います。どこかに虚構が入っているから。でも、それが虚構だとしても、ここまで人々が目をそむけたいと思っている社会の現実に目を向けさせる力を放っているからすごいなと思うんですよね。

しかも、ここまで、「こういうことなんだろうな」と、私もだらだらと書いておきながらなんなんですが、この映画の場合、この解釈が正しいなんてことはなくて、どうにでも解釈できる余裕と広がりを持たせてるからすごいんですよ。
私は「希望がないようでいて、人間の優しさに対する希望をものすごく込めている映画」だと感じましたけど、やっぱり「絶望的な映画」と解釈する人もいるだろうし。

なにが正しいかとか、本当に現実を描きたかったらはじめっからドキュメンタリーを撮るでしょ?
だもの、なんでもわかりやすく言いたいことを説明してりゃいいってもんじゃない、という映画を見れたのも、自分にとって大きな収穫でした。

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ちなみに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はAmazonプライム会員ならば無料で見られます。


Blu-rayも出てますね。それだけの価値はある映画だとは思いますが。


映画宣伝ついでにもう『エル ELLE』のAmazonビデオも貼っとくよ。原作と話が結構違いますけど。。


Blu-rayはあと6点ですってよ。購入はお早めにですって。原作よりもAmazon的にはまだ評判は高いのね。


2018-07-14

W杯とForbes Japanによるマクロン『革命』について

あまりブログは更新しているほうではなく申し訳ないのですが、またしばらく更新できないと思います。

私はまだ子育てというものをしていなかったころ、かなりサッカーを見ていたのです。こう言っちゃなんですけど、見る目もないわけじゃないと自負しています。で、ですね、やはり四年に一度となると、思い出したようについ見入ってしまうんですね。やっぱり世界のトップクラスの代表チーム同士が戦うわけですから。

そりゃね、通のひとに言わせれば、クラブチームのトップを争うほうがきっと面白いんでしょうけど、あれは所詮、「サッカーめちゃくちゃ上手い人たちの最上位クラスを集めた集団」の争いじゃないですか?

でも、代表同士の戦いですと、ええ、もちろん、ヨーロッパや南米からの代表だったらそれだってかなりレベル高いんですけど、国籍だけでつながっている集団なわけです。つまり
かならずしも、上手い人たちだけの集団じゃない
ところが面白いんですよね。だからクリロナやメッシがバロンドール何回も取っていても、W杯のタイトルはとれないわけです。そして、クリロナがバロンドールを何回もとっているようなえらい人でも、もうそこまでの選手になっちゃうと、そしてそこそこ年をとってしまえば、もうとりあえず喜んでチームプレーに徹しちゃったりする人格者になってしまうわけです。メッシはよくわかりませんが、ある意味、国の戦術がメッシになっちゃってるそうなので、その責任を1人背負っているわけです。周りの人たちがバルセロナ的なお膳立てが出来る人たちばかりでなかったとしても(というか自分以外にもディフェンスを引きつけてくれる選手がいなかったとしても)、自分が戦術になってしまっているというね。そんなのチャンピオンズリーグにでるようなクラブチームじゃありえんでしょ?だから面白いなーと。

というわけで、私は国としての団結!という以前に、どうやってその国の代表チームがある意味「妥協」しつつも(戦術だって自分の所属しているクラブチームとは違うかもしれない)、母国の人たちの期待を背負って勝ち進んでいくかというところにW杯の面白さがあると思います。

フランスだってベルギーに対して、1点リードしたら後半20分から全員、いいですか、あのエンバペでさえ自陣エリアにこもって攻撃に行かなかったんですよ。だっさい試合といっても過言ではないけど、あのフランス人たちが「意思統一」をして守り切っちゃったわけです。それすごいですよ。

日本がポーランドと戦ったとき、裏カードでのスコアが一切動かないことを祈りながら、そして相手のポーランドがこれ以上攻撃してこないということを祈りながら、自陣にこもって決勝トーナメントに行きましたね。あれを勇気あるリスクだとして評価されてるみたいですけど、いわゆるサッカーでリスクを負えっていうのは「運命を天任せにする」ということじゃないと私は思います。ましてや自力で進出可能な立場だったのに。「リスクを負う勇気」というのは、こっちが攻撃に出るにあたって、カウンター喰らうかもしれないけど勇気を出してリスクを負うってい意味だとこれまで信じてたので、あんなのが「リスクを負う」という定義になっているのにはカルチャーショックだったな。

だったら、なんで決勝トーナメントに行ってベルギーと戦って、ましてや2点リードしていたのに、なんで自陣にこもってボールキープしなかったのかなあって。それは、ポーランドと違ってベルギーにそれをやるのは「怖かった」からでしょうね。だもの、私やっぱり、あのポーランドとの戦いは「リスクを負う勇気」じゃなかったと思うんです。
だってベルギーに対しては怖くて、自陣にこもることもできなかった。もしその前の試合が本物の勇気だったら、ベルギーに対してだってどでかい人たちが投入されようと、延長になろうと恐れることなく、最後まで死力を尽くす判断ができたんじゃないかなと思ったわけです。
ましてやPKになったら勝率はどんな相手でもそれこそイーブン、コイントスで後攻をとる運がよければ勝率上がりますからね。
そういった微妙な局面での決断をする力、経験、そしてその場での選手への説得力は日本の代表監督にはなかったのでしょう。だから結局選手任せになった。むしろ監督よりも酸いも甘いも経験が豊富な選手が、その決断の責任を負った。あのCK間違っていたと思うけど、仕方ないと思います。間違っていたにしても、その選手にこれまでW杯、予選も含めて何度も日本代表は助けられてきたし、W杯3回、いい思い出も苦い思い出も観客として味わうことができて面白かったです。

本田△お疲れ様でした。「あなたの言うことは正論かもしれないが俺の選択は違う」的な生き方を、その結果の責任も自覚しながらできるということは、掛け値なしに素晴らしいです。

そういったことも含めて、W杯は面白いです。

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で、そんな風にW杯にうつつを抜かしていましたら、フォーブスジャパンさんのサイトで、マクロンの革命についてご紹介いただいていたわけです。先日気がついてTwitterには書いたのですが、そして、もうそれをそのまま貼り付けるというずさんな内容になって恐縮ですが、コラムで取り上げてくださいました、小林りん様、首藤淳哉様、どうもありがとうございました。マクロン大統領なんて一般的にはやれ「ロチルド投資銀行出身」とか、やれ「金持ち優遇大統領」という先入観で語られる人物であるのにもかかわらず、それでも関心をもって本書を読んでくださったんだなと伝わってくる内容で、本当にありがたく存じます。ちなみに、先日の施政方針演説では大統領本人は、自分は(不労所得で裕福な)金持ちを優遇していない、雇用をつくる企業を優遇してるんだ、と言ってましたが……。





2018-07-08

もう1年早くその言葉を私にいってくれればよかったかもなあ。

こうやってブログを書く場合、空気を読める人は「日本各地で被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます」……って書き始めるべきなのでしょうが、ごめんなさい、そこまで書けません。でも心配ですね。

毎年水害はひどいものがありますね。これが信心深い方々に言わせると、平成時代の天災の多さは、実のところ天皇家の祈りが足りないからだと言うのかもしれませんが、これは単に気候変動の問題ですよ。

喉元過ぎれば暑さを忘れる?ぽっぽこぽっぽこ天然ガス燃やしてる場合じゃないですよね。
東京が奇跡的にここまでの水害を逃れているのは、排水処理・下水道処理にものすごいお金をかけているからです。ここ数十年。私がまだ学生の頃なんで、杉並のあたりは浸水していたと記憶していますが、いまはそうではないですよね。それも排水設備が整ったからではないでしょうか。
今の渋谷駅の大改装も地下は排水処理をより効率的にするためじゃなかったかな。
だから東京でクーラーガンガンかけていても、高額所得者が住むあたりはびくともしないわけです。
それに対して、東京の東側のスーパー堤防については、もはやどうなってるのかわかりません。だったらそっちも取り入れるにせよ、別の技術をいれるにせよ、ちゃんとしないとフェアじゃないと私は思いますが、わかりません。

私は徹底的な原発反対派でもありません。廃炉にするにしても、どう考えてもそのための技術がいるわけですし、予算も必要です。むしろ、どうやってこの将来性のない発電方法を最終的には廃止に向かってソフトランディングさせるかが問題なんじゃないかと思います。

東日本大震災からもう7年以上たったいま、太陽光発電・風力発電等の再生可能エネルギー生産のコストは世界的には技術の進歩によってかなりお安くなり、あの原発大国フランスでも老朽化した原発施設をどうするか……また新たな原発施設にすべきなのか、それとも再生可能エネルギー発電所にするべきなのか、意見が分かれているようです。ましてやクリーンテック技術推進にフランスの将来を託しているマクロン大統領の場合、どうなるんでしょうか。

そう、原発大国フランスでさえそう言われています。再処理技術もきちんと持っている国でさえね。外国に原発技術を売りに行く場合、じゃあ、日本は競争力はあるんでしょうか? 確かフランス政府はマクロンが大統領になる前のオランド時代にアレバに増資しています。その前年12月に三菱重工はアレバに巨額投資する決定をして、実際そうしていますが、合弁事業だったら大丈夫ぐらいに思っているんですかね、経産省は。いいかげん目を覚ましたほうがいいと思うな。原発の何が問題って発電そのものはともかくとして、それにともなう放射性物質による汚染度をどこまで低減できるか、再処理できるかのコストなのだし。

で、日本は再処理技術ってあるんでしたっけ?施設は稼働してるんでしたっけ?

ルノー日産三菱云々いってる場合じゃ無くて、むしろ日本が日本のお金と将来を心配しなきゃいけないのはこっちだと思います。太陽光発電、風力発電の技術に関しては中国に完全に置いていかれてしまっているようですし。

東京に住んでいると、同じ国でこんなに災害にみまわれている方々がいることに鈍感になりがちです。
私ものんびりW杯の試合を視聴したり、オウム事件死刑確定者の7人の処刑についてのニュースに目を向けがちになります。

ですが、毎夏、国内の特に地方を旅行すると、ビルに入っても室内に入ってもこんなに暑いのかと思ってしまいます。ちょっと東京を出れば、そう、発電量が不十分のためなのか、冷房は控えめにしている地域ばかりです。もはや地方には親戚が居ないに等しい自分の見識の甘さには毎回自己嫌悪に陥るほどです。

じゃあ、ふるさと納税?と言われてもね。自分の暮らしている地域に還元しないで謝礼品目当てに他の地域にという気には、私はなれません。高額所得者であればあるほど自分に対するリターンも大きいあのシステムやっぱりおかしいと思う。じゃあ、災害のためにふるさと納税するというのならば、それはありだと思いますが、普通に義援金でもいいんじゃないのと私は思います。
それから義援金に対するお礼状や控除のための用紙を郵送なんてしなくていいですよ。それが必要ならば必要な人がホームページからダウンロードできるようなシステムにすればいいわけで(普通に郵送していくよりも人件費や経費がかかるのかはわからないけど)、非常時にそんな手間暇かけることない。お気持ちだけいただきます。寄付でもそうですけど。

それなのに東京は保育園が足りないとか、小学校や学童保育(または放課後クラブ)の予算が足りないとか怒っているんだもの。私の暮らす地域は企業も多く、高額所得者が多く住む地域でありますが、2年ほど前でしたか、図書館の張り紙を見て呆然としました。
「予算不足のために、芸術関係の資料(CDとかDVDのことでしょうね。書籍も圧倒的に減りましたが)は入れませんのでご承知おきください」といった内容だったと思います。なんか割り切れなかった。恥だと思った。私は本を買ってもらいたい立場の人間ですけど、買う余裕のない人、買いたくない人にまで買えとは本気ではいえない。そして、そういう人たちが文化にアクセスできないのはそれこそ「先進国」として間違っていると思います。もう読み終わった本は地元の図書館にあるかどうか確かめてから寄贈するようにしています。『革命』も遅かれ早かれそうなるかな。

昨日のオウム事件死刑確定者の処刑のニュースだってひどい。いつもなら、死刑が執行された場合ってすべて終わってから発表があるもんじゃないんですか?それなのに、まず、「松本被告の死刑を執行しました。今回他にも数名予定しています」なんてリーク、わざと政府がやっているわけですよね。それをマスコミは次は誰か誰かと待ち構えては実況放送している。死刑制度の是非についてだって色々ありますけど、これって是非以前のそれこそ倫理観の問題じゃないかと。

私は自分の息子と本当に話がかみ合わなくて、そのかみ合わなさにいたっては、もう絶望的なのですが、この件について初めて意見が一致しましたね。息子曰く

「それなら日本マジクソ終わってるじゃん」

私も息子も日本のすべてがマジクソ終わってるなんて思っていません。私は日本の将来に対しては悲観的ですが、息子は日本のみならず何に対しても誰に対しても楽観的な子供です。唯一の長所かもしれない。
よく、私に向かって「なんでそんなふうに何でもかんでも悪く言うんだ?」って言うのはいつも息子のほうです。ただ、私はこう言いました。

「この先、生きていく上で『なんでこんなことになっちゃうの?』って思うことにはたくさん遭遇するだろうから、覚悟した方がいい」と。

別に息子はもう、日本に縛られて生きていくこともない。もちろん、日本で暮らしたいのならばそれも彼の選択として認めるつもりですが。

そして私は「マジクソ終わってる」という表現をメモし、今後の業務に生かしたいと思ったわけです。


2018-06-16

過去・現在・未来……朝日新聞社のマクロン関係本の書評について

先週の9日、土曜日の朝日新聞朝刊紙面に立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明先生の書評が掲載されていました。翌朝、近所に住む喜んだ義理の母が私に見せてくれました。朝日新聞となるとやはり影響力が大きいようです。義母は「びっくりしたわ!」と申しておりましたので。

私としては非常に『革命 仏大統領マクロンの思想と政策』の紹介としては非常に分かりやすくありがたいなと思っておりましたので、写真にもとってブログなりTwitterなりですぐさま紹介したかったほどなのですが、朝日新聞の書評インターネットサイトは、紙面に出した1週間後にネットで公開すると私は思っていたため、待つことにいたしました。

ところが、私の検索間違いだったのか、勘違いだったのか、あるいは書評サイトがリニューアルされていたのか、既に今月の12日(火)に掲載されていたようです。


繰り返しになりますが、『革命』については、非常にわかりやすいご紹介をいただいております。本書を読んでいらっしゃらない方々にとって、判断材料にしていただけるのならなおさら、大変ありがたく存じます。要所が端的にまとめられていて、本でも何でも何かを紹介する・要約する場合はこのように書くのが王道だと改めて痛感した次第です。

なお、書評で少し言及されている、加藤かおりさんの翻訳したアンヌ・フルダ著『エマニュエル・マクロン ―フランス大統領に上り詰めた完璧な青年』も、私がお世話になっている同じ翻訳会社が関係しております。Kindle版も出ているようですね。

アンヌ・フルダの本は、アプローチが違って興味深いです。たとえば『革命』ではさらっとしか語られていないブリジット・マクロン夫人との関係などにも興味ある方にはよいのではないでしょうか。

おそらく『革命』は自著であるだけに、エマニュエル・マクロンが「何をしたいのか」を中心に据えており、『エマニュエル・マクロン ―フランス大統領に上り詰めた完璧な青年』はエマニュエル・マクロンが「どんな人物なのか」をテーマに据えた本だと考えればわかりやすいかもしれません。

自分は他者を見るときに判断材料として、その人の人となりや人格形成における背景、つまり現在と過去を重視するのか、その人のやりたいと主張していること、つまり未来を重視し、それに賭けるのか、そのあたりでも好みや評価は分かれるのではないかと個人的には思っております。

いずれの本も翻訳に当たり、手がかかっております。改めましてどうぞよろしくお願い申し上げます。

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2018-05-31

ニーズがあるのかすら不明ですが、半分自分用に。マクロンSNSリンク集

フランス大統領エマニュエル・マクロンさんはSNSを酷使して色々と発信しています。

アメリカ大統領のようにすべて自らツイートしているというわけではないのでしょうけど、Twitter見る限りはマクロン節も炸裂しているといっていいでしょう。

大統領選のころ、当選後しばらく?は自らの決めぜりふをJPEG化して写真として載せていましたが(マクロンに限ったことではありませんでしたが)、Twitterの欧文の場合は280文字仕様になったおかげで、いまはそうする必要もなくなったようです。

ブログの左側の欄にエマニュエル・マクロン名義のSNSリンクのリストを作りましたので、ご興味があるかたはお役立てくださいませ。



これ以外にもエリゼ宮(大統領府)名義のものや、政党「共和国前進」名義のものもありますが、きりがないのでマクロン名義のものにしました。ほかにもLINKED INもありましたが、TumblrとPinterestはやっていないようです。

……やれやれ。

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重ね重ねどうぞよろしくお願い申し上げます。