2018-08-01

諦めない力~落ち込んだらKindle Paperwhiteを持って火星で生きるのもありかしら??戦争とフィギュアスケートと自己肯定感の話

先日アップロードしそびれた記事があります。体調が戻りつつあるなか、うじうじしていた気持ちをぶつけるかのようにだああああーっと一気に書いたのでめちゃくちゃ暗いです。

でも、昨日、割と元気になって、火星が地球に一番近づく日だと聞いたので、思い切って外に出ました。
火星を見ながら、そうだ、今日はデヴィッド・ボウイがいちばん地球に近づいてる日なんだと思ったらなんだか楽しくなってきました。しばらく火星は地球の近くにいますが、離れていったら次に戻ってくるのは15年後だそうです。そうすると私ももう60歳を過ぎてしまいます。私はそれでも生きているつもりでいますが、どうなることやら。

なのでしばらくボウイの曲を聴きながら火星を見ていました。

この曲も含めてね。





やっぱり健康と音楽と外の空気は大事です。

このいずれかが欠けてしまうと、だるくなって、気が滅入ってきて、次のような文章をだあああああーって書きなぐる…打ちまくることになります。
結構真面目にリンクを貼ったりしたので、そこそこ手間がかかっているしなあ……。

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週末、夫が作ってくれた麻婆丼を食べてから、なんかお腹が痛くなって少し寝て、起きてからずっとトイレを往復していました。おいしかったのだけど、いつにもまして辛く感じたのは疲れているからだと思います。ただ、それが原因だと思うってなかなか言えませんよね。


もしこれが、夫が私が作った夕食を食べてから、ずっとトイレを往復しているというのならば、きっとそのままフィルタなしに言われると思いますけど、私はそれをそのまま夫に言ってしまったら最後、週末にはもう食事を作ってもらえないんじゃないかと思ってしまうし、そう思ってしまう自分が情けなくもあります。ほんと私、家事全般が嫌いで苦手なんですよ。
ともかく、この人とは決して対等にはなれないんだろうな、という気持ちは、自分が変わらない限り、そう、自分がその人と同じレベルで収入を得るか、あるいはそれ相応の家事や育児ができる立派な妻や母親だと自負できるようにならない限り、一生続いていくのかもしれません。

だからどこかで変わらないと、もっと頑張らないといけないと思うわけです。
年のせいか身体はどんどん動かなくなるのに。
と言いながらも、睡眠時間を削るとそろそろ突然死が気になるお年頃でもあります。

よく母が私の年齢のころ、いえ、ずっと若い頃ですね、そして私がいまの息子よりもずっと幼い頃に「夜眠ったらそのまま起きたくない、そのまま死ねれば最高だ」と私に言ったものです。
幸か不幸か今でも健在ですが。
でも私は、自分にお迎えが来るにしたって、今のところは事故死とか突然死だけは勘弁してほしいです。
身辺整理もろくにできてないのに、死んだあとまで片付けで迷惑かけて夫に頭が上がらないんじゃあの世で立つ瀬がない。

いっそやめて、いまから職替えしたらこのコンプレックスから解放されるのだろうかとか。

嫌いな仕事で収入が少ないのと、好きな仕事で収入が少ないままでいるのと、家族に対してどちらが罪悪感を覚えるかといえば、女性の場合はとくに後者なような気がします。




この春に3年ぶりに実家に帰ったとき、「自分がかけている手間の割にはこの仕事はお金にならない」と、つい母にこぼしてしまいました。
そう言われれば「じゃあ職替えしたらいいのでは?」となります。当たり前です。

実際、母は「りえにはどんな仕事だったらいいんだろうね?」と私に言いました。

両親……とくに母は私にとても期待をかけていました。
家族の中で大学まで行けるだけの学力があったのは私だけでしたし、それどころか、中高も私立に行かせてくれたし、外国にも行かせてくれたし、大学までやったのだから、きっと私は同じ大学に行っていたようなお嬢さんたちのようにきちんとした正社員になって、バリバリ仕事をして成功すると信じていたのだと思います。

ところが、ひねくれた性根と、空気のよめなさが言動に出てしまうんでしょう。
母が期待していたような会社にはどこにも採用されなかった。

「どんな仕事だったらいいんだろうね?」

と、言われた後、私は母に「ごめん、少しだけこのテーブルの上に突っ伏してもいい?」と聞きました。母は何も言わずにうなずきました。

突っ伏して1分ぐらいたったあと、もう大丈夫だと思って顔を上げてこう言いました。

「ごめん、もう私は一生お金持ちにはなれないと思う。申し訳ないけど、お母さんがもし今でもそれを期待しているなら、それには応えられない。でも、やっぱり私いまの仕事が好きなんだよね。やめられない。声がかかったら、どんなに無茶ぶりでもまた引き受けてしまうと思う」

母は何も言いませんでしたが、うなずいていました。これが20年前だったら親不孝だと怒られていたかもしれない。
あるいは、「そんなに好きこのんで自分を惨めな立場に追い込んで自分を傷つけることはない」と言ったでしょう。

「よくやっているよ、りえは」

母の言うことの95%は私にはまったく同意できないことばかりで、正直なんでよりによってこんな人が自分の親なんだろうって子供の時から思っていました。
でも5%はやけに真実をついていたりするもので、どこかで尊敬していたのだと思います。

酒にめっぽう強かった母の言っていたことの一つに「年だから酒がまずくなって飲めないのかと思ってたら、がんだった。酒がまずくなったら、大病が隠れてるからすぐに医者に行くべし」というものがあります。
笑っちゃったけど、その通りだと想像できます。
問題は私が家族の中で唯一、お酒がろくに飲めないこと。
その名言が私の健康管理に全く役に立たないことですが。

お酒はともかく、私なんて足元にも及ばないほど、子供の頃から苦労してきた人なのだから、言葉に説得力もあるし、信じられないほどの窮地に陥ったときに、一人であそこまで強気を保って逆境を跳ね返せる人を私はほかに知りません。
平時だとなんでそういう話の展開になるんだといいたくなるほど、ちょっと変なところはありますけどね。

そして、なんだかんだいっても、母は私の数少ないよさをわかってくれている人です。おそらく、誰よりも。
だって私のことを出来が良くて本当は優しい娘だなんて思ってくれているのは世の中で彼女だけなんですから。
それが完全に的外れであっても。


もともと母は素直に謝れない人でした。小さい頃からそうだったそうです。頑として謝らない子だったそうです。

土木技師として大陸に渡っていた祖父が戦後中国…次回の冬季オリンピックの山の競技をやるあたりよりもさらに奥の方だったそうですが、最初は、国民党だったのかな、で、しばらくすると共産党に、結局トータルで10年も引き止めを食らったそうです。長い間生死もわからない状態だったらしい。
一方、祖母は4歳だった伯母と2歳だった母を連れて3人で引き揚げてきて、造り酒屋の実家にご厄介になっていたころの話は、今どきの親が子どもに絵本を読み聞かせするように母からよく聞いていました。

もう終戦記念日も近いのでちょうどいい話題かもしれませんが、内地での戦時中、戦後の話も、外地からの引揚者の話も、フィルタがかかってないと結構えぐいですよね。

祖母も私の家に来ると引き揚げたときの話をよくしてくれました。

私は「桃太郎」と祖母の「引き上げてくる列車の中で赤ちゃんが栄養不足でどんどん死んでいく。でも列車は止まってくれるわけがない。赤ちゃんの死体をそのままにしておけないから、死ぬとおくるみでぐるぐる巻きにして列車の窓から力いっぱいポーンと投げて捨てる」という話を同格扱いで昔話として聞いていました。「窓の外を見ると、ポーンと投げられて捨てられる赤ちゃんをよく見た」と。
そのポーンという祖母の言い回しが私は気に入ってしまって、何度もその話をしてくれとせがんだものです。
小学校にあがるかあがらないかのころです。

で、その謝れない母に話を戻しますと、内孫と外孫の違いって大きかったんですね。
戦中戦後と親戚にお世話になるときの親戚の嫌みったらしさの話って、極端なものだと火垂るの墓とかありますけど、あながち外れていないように思います。

祖母は肺が悪くて体の弱かった伯母を連れて県庁所在地の大病院によく付き添っていたそうです。だから、母は祖母の実家に、完全にアウェイ状態でほったらかしにされてたそうです。

祖母の実家は造り酒屋だけでなく(お酒なのでね、当然、時代も時代で密造密売もしていたらしいんですけど、その筋の方との交渉はやはり修羅場をくぐってきた祖母が担当していたそうです)手広くやっていたそうで、母はたばこ屋の店番を受け持たされたそうです。小学生の頃は。
もちろんお金の計算間違えてはいけないから必死だったでしょう。

よく、母は自分が小さい頃理不尽なことで私の曾祖母から怒られたと言っていました。内孫より通信簿の成績がいいと、家業の手伝いを疎かにして遊んでるからだと叱られるとか。
成績いいぐらいだからたばこ屋の店番だってこなせたのだろうに。

ほかにもいろいろ母の左利きを嘲る(母は鉛筆もお箸も右手で持てますが、ハサミと包丁は左手のほうが楽だそうです)、正確に言うと右手も左手も同じように使える器用さを小馬鹿にしたりと、子供心に嫌な思いをさせられたそうです。それでもご厚意で住まわせてもらって食べさせてもらってるのだから仕方ありません。

戦後日本の比較的余裕があったであろう地方でもそんなものでした。
だから母は、理不尽なことを言われてる以上、謝ったら負けだと思ってたふしがあります。
うっかり左手でお箸を持ったところをとがめられても、ごめんなさいとは言わなかったそうです。
いまでも簡単には非を認めない。そこは結局、私も似たのかもしれません。

だから、成人して、結婚して、親になっても、非を認めない代わりに、私になすりつけたりもしました。

一番良く覚えている家族旅行の思い出は、母が車のトランクの中に車の鍵を落としたままトランクを閉めてしまったことを父に責められたときのこと。
母がとっさに父に言い返した言葉は「りえがぐずぐずしていて、それに気を取られたから」

学年としては5年下の弟が私にはいます。
年が私の世代にしてはわりと離れてる理由の一つが、私が子供の頃ひどく身体が弱くて手がかかって精神的な余裕がなかったからというもの。父もここぞというときは出てきてくれましたが、育児家事全般ほぼノータッチでしたからね。そういうことを私に口にしてはばからない母でした。

実際、私は4歳の時、2ヶ月ほど昔で言う肋膜炎、正確には胸膜炎で入院したことがあります。
今思うと、伯母が私を割とかわいがってくれたのは、子供の頃、肺が弱かった共通点があったからなのかもしれません。

ともかく幼稚園に通い始めて5日目に体調をくずして、その後入院する羽目になったようです。

大病院の小児病棟では2ヶ月の入院なんて軽い症例(だと周りの親御さんたちにうらやましがられたそう)ですが、今思うと、弟を身籠ってた母にとってはえらい目にあわされたことになります。
最終的な入院先が電車で片道一時間以上かかる都内の病院でしたし。
やっと一人っ子の私が幼稚園に行くようになって少しだけほっとしただろうに、むしろもっと手間がかかることになったわけです。

私を育てていて、手放しでいい思いはしなかったのだと思います。
女の子なのに、たいていの場合、不機嫌そうでふてくされてるし。
ごくたまに私が笑っている奇跡的な写真があったようで、それは母は今も大事に飾っています。

ともかく2歳か3歳の頃、親にはいやだとかネガティブな意思だけははっきり示すのに、まったく他人と話が出来ず、この子は自閉症なのではないかと心配になって、専門家にみてもらったこともあるそうです。
4日間通った後一度リタイアしてしまった地元の幼稚園も、いわゆる面接でひとことも喋らなかったために一度落とされたのを、知り合いが掛け合ってくれて入れてもらったとかで。

ずっと後になって、父が亡くなり実家を手放さざるを得なくなったとき、次の住まいには入らないので、色んなものを処分しました。すると古い書類の束からそのときの資料が出てきました。
おお、話に聞いていたのはこれかと。
身辺自立が遅れている、年相応の常識がともなっていない、みたいなことが書かれていたかな。
今も昔も自分で何かやるにも手先が不器用なんですよ。

それでも発達に異常はないということでしたし、むしろ記憶力は割とよかったんですよね。
自分が何か買ってもらうとその日付を全部覚えていたり。
鉄道好きな子供が全部電車の名前を覚えてしまうように、私は日付を覚えるのが好きだったので日付を覚えていました。

いま、こんなに物忘れがひどいのが信じられないほどです。
たとえば歯医者さんのアポをこれまで何回忘れてしまったことか。自分の分も息子の分も含めて。
もうこれ以上忘れてはいけないほどの回数です。次やったらもう合わせる顔がありません。
だから今週は絶対に忘れちゃいけない。

なんでしょうね、ともかく、私は弟よりは勉強は出来る子として期待されていたかもしれないけれど、弟ほど無条件には愛されてはいなかったんだろうなと思ってしまうことはよくありました。

そんな母ももう年老いて、さすがにわかったんでしょう、自分の娘が理想とかけ離れていても、嫌な思い出を想起させるようなタイプであっても、娘であることには変わらないと。だから「出来が良くて本当は優しい娘」だと思ってる。

さあ、話は戻りますが、「よくやっているよ、りえは」と言った母の言葉ほど、これまでのどんな言葉よりもほっとさせられたことはありません。
でも根拠のない自己肯定感を持つには遅すぎたかもしれない。

そしてよくもまあ、夫はこんな私を見捨てないと思います。
いい年してだらしなくて常識のない手際の悪い妻。諦めているのだろうけど、見捨てはしない。

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さて、先日のAmazonプライムセールでKindle Paperwhiteを買いました。ギリギリまで悩んで調べた末、むしろ広告付きの方がおすすめとか出てくるわけで面白そうだと思って、広告付きの割引率が高い方を買いました。
読書中には広告は出てこないというのも決め手でした。
広告付きの欠点はよく指摘されているように、スリープ状態から読めるようになるまでに2ステップ挟まなきゃいけないことですけど、そのことはあまり私は気になりません。

当然ですけど、iPadよりははるかに軽いし、読みやすいし、なんでもっと早く買わなかったんだろうと思いました。

で、わりとフィギュアスケート好きなもんで、思わず買ってしまった電子書籍がこれ。




浅田真央、小塚崇彦、安藤美姫、村主章枝、佐藤有香らトップ選手を育ててきた名伯楽・佐藤信夫。コーチ生活50年となる著者が、自身の65年にわたるスケート人生を振り返り、さまざまな出会いから導かれた教えを伝え残します。あまたの正念場での決断、粘り……初めて明かされる秘蔵エピソードが満載です。

あっという間に読めてしまった。そういう意味では、映画よりも高くついた娯楽かも。

でも、保護者としてであれ、指導者としてであれ、子供に接し、なんというか子供を導かなければならない立場の大人にはわりとおすすめできる本です。

そう、浅田真央は最後、傍目にはボロボロの状態で引退することになったかもしれません。
でも、ソチ五輪から復帰後には、苦手なルッツがeじゃなくて!と評価されるようになったりしてたようですし、最後の試合はたしかそうしたマークがつかなくなった試合だったのではないでしょうか。細かくは覚えていませんが。

「やりきった、悔いはない」と彼女が会見したのはそれが大きかったのかもしれませんね。

佐藤信夫コーチが浅田真央についてアクセルじゃなくてルッツの話を一番感動したことだと引合いに出したということが、なかなか興味深かったです。

見てる人は見てるんですね。そして諦めない人は諦めない。
コーチだからこそ、じゃなくて、親だからこそ、でもなくて、見てる人は見てるし、諦めない人は諦めないのかもしれません。

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追記(2018/08/12): 

買ったのはこのモデル↓ 



いままで私はAmazonで購入した電子書籍はおもにiPadのKindleアプリで読んでました。
もちろん、カラー版の電子書籍はiPadなどカラーで見られる端末のほうがいいです。
けれども活字として読むならば、こちらのほうがもう読みやすくてたまらない。
自分でアップロードしたPDFも文字の大きさ変えることができるんですね。これが意外とありがたくて。
つまり出先でもどこでも、仕事でわたされた原書のPDFをさらさらと読めますし。

身体が動かないときは寝っ転がりながら、とりあえずこれ持って次の訳す部分を読んでおけるのもありがたい。

電子書籍の著者への還元率は出版社経由だと高いとはいえないのはわかっているんですが、もう、この便利さにはかなわないです。iPhoneやiPadだと意外と電子書籍は読まないんです。
そして高度にカオス化した狭小住宅の我が家の場合、もうここに興味ある本をぶっ込んでおけばどこに置いたか考えなくてもすむのもストレス解消になります。

なんだかんだ言うわりには買いあさってますので、ますますお金が飛んでいくんですけどね。

財産は誰かにとられることがあっても、頭の中に入ったものは誰も奪うことができない……と実感しているので、収入が消えたって頭の中に何か知識が残るならいいです。

これから使い倒して、読みやすいようならクリスマスか誕生日に息子にプレゼントしようかなと考えたり。
広告付きで全然OKですよ。

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