2018-07-25

完全にネタバレはしてます。『万引き家族』を観に行きました。




ひとつひとつのセリフ、シーンがその時点で受け止めたこととはちょっと違う意味をもっていて、あとになってそういう意味だったのか!と膝を打つつくりになっているので、ぼんやり観ていると、よくわかんないまま終わってしまうかもしれません。

最近の映画は1コマに込められる情報量が多くて、私はあまりついていけないのですが、幸いにしてこの映画は進行がものすごく早いタイプのものでもないから、あらかたはわかったと思います。

いやあ、やっぱりすごい映画だった。あの構成力は、ただただすごいです。

以下完全にネタバレしてますので、ここで引き返すなら引き返して下さい。



繰り返しますが、めちゃくちゃネタバレしています。ここまで書いちゃうのまずいかなとも思うのだけど、今の段階だと、たぶんリピーターの方が観に行くんじゃないかなと思うので、もういいやと。時系列で書いていないし。忘れる前に書いておきたいなと思ったほど感心した映画だし。

なので、ネタを知りたくなければここで引き返して下さい。今です。



























それにしてもこの映画の脚本すごいですね。『万引き家族』というタイトルから「モラルのかけらもない育ちの悪い人たちの貧困生活(をどうせ美化したものなんだろう?)」という先入観を持たせておいて、最後の最後までその先入観を裏切っていくのだから。


たとえば、前半の家族のようすを描いているところで、「男の子」が家族のために万引きしてきたメリットシャンプーに文句を言う「おねえさん」は、決して万引き慣れした結果の贅沢を言っているわけではなかったことがあとでわかる。

これはむしろ「自己責任」を選んだ人たちの物語。しかも、そうせざるを得なくて選んだというわけでもない。犯罪をしながらであっても家族の絆がほしかった人たちの話。


だから貧困や犯罪行為「そのもの」を単純に美化した映画ではない。いくら現実にあるような事件がたくさん盛り込まれていても、リアルに描いたのではなくて、ファンタジーなんです。

既に指摘されていることですけど、「おばあちゃん」の年金が確実な収入源としてあてにされてるとはいえ、「父親」も日雇いで働いているし「母親」もクリーニング屋の工場で働いている。働いてはいる。といっても不条理で不公平な理由で、そう、正社員と非正規社員の待遇格差がそもそもの原因で働けなくなる。会社は正社員は首を切りにくいし、保証も法律に則っていなければならないから。でも日雇いやパートはそうじゃない。ああ、同一労働同一賃金ってなんなんでしょう。

あの男女はきちんと籍を入れているわけでもなさそうし、だとしたらあの父親の年齢と状態で「一人暮らし」ならば生活保護もらうのだってできるだろうに、そうはしない。
実際、「父親」には前科があることが後半明らかになります。
だったら、かえって生活保護もらうのは簡単だろうし、すべてがばれて疑似家族がバラバラになったあと、しばらくたったあとのシーンでは、「父親」はどうも生活保護によって「お風呂だけは新品」の郊外のアパートで暮らしている様子が描かれています。

でもそうしなかった。優先順位が違ったから。優先順位の一番上にくるのは分不相応な物欲などではない。だいたい分不相応だろうと他人は知ったこっちゃないんだけど、実際、全然、まったくそうじゃなかった。

なぜ社会扶助を選ばなかったか。「家族」を手放したくないから。一緒に暮らしたいから。本物の家族じゃなくても、「社会」より家族の絆を信じたかったから。そしてその根拠はきっと、日本には社会扶助というものがある、ということをもはや信用できないような経験をあの男女……とくに「母親」はしてきてるから。社会は助けてくれない。

そう、死亡事件が起こるたびになぜ行政は助けられなかったのかと話題になる児童虐待……そのなかでもネグレクトについては、この映画では程度の差こそあれ、少なくとも3つのケースが出てきます。(実際には4つほのめかされているわけだけど、4つめはそれは想像させるものなので省略)

まず、予告編にもあるあの小さな女の子。パートナーからDVを受けている母親の恨みのはけ口になって、冬の寒空に何も食べさせてもらえずパジャマのまま団地のベランダに出されて家の中に入れてもらえなかったり、腕にアイロン当てられたり。体は傷痕だらけ。「産みたくて産んだわけじゃない」と思わず母親が口を出してしまう子供。でも「保育園に行っている」とニュースに出るぐらいなので、母親も働いているようです。

この「万引き家族」の「おとうさん」が、寒空に空腹のまま団地のベランダに放置されている女の子を見かねて家に連れ帰って夕ご飯を食べさせてやることにしたのが話の発端ですが、「おばあちゃん」はすぐに体の傷痕に気づきます。その女の子が優しくされた思い出、心のよりどころは「天国にいるおばあちゃん」が作ってくれたくたくたに煮たお麩だという。それが大好き。でも、その子が最終的に実の家庭に戻されたときに、母親が作ってやったと自称する食事はオムライス。事実だとしても、マスコミからの質問の手前嘘を答えたにしても、自分の子供の好物もよくわかっちゃいないということがそれだけでわかる残酷さ。

とはいえ、最後に、またもその女の子がベランダから、ガラクタが入ったビンを大事に脇に置いて、外を見ようとするそのまなざしから、万引き家族との思い出が、天国にいる自分のおばあちゃんとの思い出と同様、その子のよりどころになったことが伝わってくるんですね。まったくもってすごい撮り方。

この女の子はそれまで本当の家族の元に帰るチャンスがあったのに、あえて万引き家族との生活を選んだ子でした。


そして、その万引き家族との生活を終えた後、実母の「服買ってやるから」という言葉が、軽薄なものだとわかってしまった。
万引き家族の「おかあさん」が、この子は髪の毛の色からするとこっちのほうが似合うんだよね~まいったなあ、頭をかきながら楽しそうに似合いそうな水着や服を選んでやって万引きする……そんな思い出もあるし、その「おかあさん」に「『服を買ってやるという言葉は、その言葉に乗ったら最後、あとでいちゃもんつけられて暴力をふるわれることを意味しているわけではない」と教えられたから。

「おにいちゃん」が自分の手で生活を変えたように、それまではこの女の子にはなんとか生き抜いてほしい。かなりやばい状況のはずなのだけど、この子はもしかしたら生き抜けるかもと思わせる撮り方をしているように私には見えました。
身内ではなく、他人に損得抜きで助けられた経験がある子のほうが実際は強いのかもしれないと。そう、本当ならば家族よりも社会のほうが困っている人を助ける力があるはずなのです。でも、制度的な話なんか抜きにして、この国の国民性としてそういう社会であるのかは疑問を感じずにはいられません。

つまり、この映画は日本の行政制度の不備を責めているとも限らない。仮に、その手の問題提起をしているとしたら、それを見ない振りして関わろうとしない「ふつうの人々」の欺瞞に対してなんじゃないのかな。

2つめは、その子の「おにいちゃん」のケース。学校にも行かせてもらえず(「学校は家で勉強できない子が行くところだ(おまえは家で勉強できるのだから行かなくていい)」と教え込まれている)、唯一「父親」が親として教えてやることができた処世術だという万引きをする男の子が、どういういきさつであの家族のなかでいることになったか、最後の最後で「母親」によって観客に明かされます。

男の子はお店で万引きすることについては「まだ持ち主が決まっていないものだから」という「父親」の理由に納得していたけれど、物の持ち主が決まっている車上荒らしを教わることは拒絶するんです。それでも「父親」が捕まらないように一応見張りはしますが。そして一緒に逃げながら「ぼくを助けようとしたからだったの?」と。「父親」は目が泳ぎながらも肯定する。

「父親(と「母親」も?)」がパチンコ屋の駐車場で車上荒らしをしていたついでに、幼い子供が暑い中車の中で放置されていたのを助けたのに、その成長したその子供は、車上荒らしを目撃することによって、軽犯罪を繰り返す生活から足を洗いたくなるきっかけになってるという因果がすごい。

そして、この子が唯一のこの映画での希望でもある。この子だけが、家族といっしょは居心地はいいかもしれないけれど、この生活から抜け出さなければならない、社会に出なければならないと思って、自ら実行したのだから。施設に送られた後、一生懸命勉強していることがわかるせりふが色々あります。

そして、男の子が「わざとつかまった」と告白したその気持ちを、最終的には「父親」も、そしてその男の子を拾ったいきさつを詳しく説明した獄中の「母親」も察して、この子を解放してやります。いや、男の子がつかまったときに病院に置き去りにしたつもりだったけど、もうあのとき既に解放していたのかもしれない。

再会した「父親」は「もう(おとうさんじゃなくて)おじさんにもどるわ」と男の子に言います。「母親」はその子を拾ったいきさつを説明して、本気出せばその情報で本当の両親も見つかるとまで断言する。

「父親」も「母親」も両親になることを諦めることによって、この子にとって両親になる。だからずっと言えなかった言葉も、もう「父親」には届かないその言葉を男の子はバスの中で口にする。

病院で「自分を置き去りにした」万引き家族について刑事に質問されているときに、男の子は学校に行く意義を尋ねます。刑事は「勉強のためだ」とは言いません。「人と出会うため」と答えます。

それまで男の子にとって、家族以外との唯一の「人との出会い」、「社会とのつながり」は駄菓子屋兼雑貨店でずっと自分の万引きを実は見守り続けていて、「いもうと」が万引きをまねたときに別のお菓子まで持たせて「いもうとにはさせるな」と声をかけた店主のおじさんでした。そのおじさんも夏に急に亡くなって、古びた木造の自宅兼お店は閉店してしまう。クーラーなさそうだったし、ほんと熱中症問題深刻よ。

でも、その経験があったからこそ、刑事のその言葉のポジティブな側面に納得して男の子は施設に行くことにしたのでしょう。けれども果たして私たち大人は、たとえば学校とは「人と出会うため」と断言できるのでしょうか? そう、学校とは、子供によい影響を与えられる人間関係を学ぶの場であるという責任を自覚しているのでしょうか? 「学校の意義は人との出会い」とはよく言われますが、その言葉の重さ、「家族のなかだけでは人間は成長できない、社会の一員としての有意義な経験も必要だ」という責任を、大人はいま一度かみしめるべきだと思います。

子供のうちに、自分の好き嫌いとは関係ない人々も含めた社会のよさを信じることができなかったら、大人になったときに、ただ自分と自分のお仲間さえ良ければいい人になっちゃいますよ。

私の両親は、地域社会とつながることをどこかで嫌っていました。つきあいが面倒だと言って。うちのこと詮索されたくないからと言って。そしてどんな家庭であるかを、友達という「他人」に話すことも禁じていた。父は毎日家に帰ってくる健全な家庭ということになっていたし。高校生になってもそれは続いていました。
そんなふうに育った私も、この高度にカオス化した家が恥ずかしいからお友達を簡単に呼んでこないでと息子に言ってしまうんですけどね。

学校であれ、家庭であれ、子供の心の居場所のあるなしは、必ずしも貧困問題と関係があるわけでもない、というのは、息子を通じてここ数年、いまもなお、感じるところであります。

それでも、以上の2つの男の子と女の子のケースは貧困問題と関係はあるでしょうね。ですが、3つめのケースはまさに私が一番ぐさっときたところ。
「母親の妹」という扱いになっている20歳ぐらいの「おねえさん」のケース。結構いい家に住んでいる両親が「おねえさん」の妹をかわいがっているシーンが出てきます(そのシーンの見せ方も見事)。
それから「おねえさん」はバイト先のJK風俗で出会った、口のきけないお客さんの自傷の痕をみつけて、共感して泣いて付き合い始めてしまうほど、自分自身にも自傷癖があったのだろうなとわかるようにできている。

冒頭、男の子がシャンプーを万引きしてきたブランドが「メリット」で「おねえさん」はぶつくさ文句を言うシーンで観客は、「万引き慣れして贅沢しているしょうがない若い子」というミスリードされるだろうけど、もともとメリットよりもいいシャンプーで髪の毛洗ってたような家の育ちだからとあとでわかる。

そう、子供に対する「虐待」は精神的なものならなおさら、所得層なんて関係ないことをつきつけられるわけです。

実際、親は高校卒業後家出したおねえさんを『オーストラリアに留学している』と取り繕って、恥ずべきこととして捜索願も出していないように見える。
むしろ家出娘のことをうすうす感づかれてるんじゃないかと思う気持ちも重なって、前夫の月命日だからといってやってくる「おばあちゃん」にお金を渡してしまう(毎回3万円)。

「おばあちゃん」はここまで計算して「おねえさん」を引き取ってたのかどうかは、「おねえさん」にも最後までわからない。だから「おねえさん」が疑似家族が解散した後にもう入れなくなったあの家をのぞきにいくのは、それを確かめたかったからかも、家族愛を確かめたかったのかもしれません。そして、あのお客さんと付き合い続けるのか、実の家族のところに戻るのかはわからない。まずは前者なんだろうなと思うけど。「母親」が「父親」とのなれそめを「あたしだって(出会いは相手が)客だったから」と肯定的に話していたしね。

おねえさんはおばあちゃんが大好きだというシーンはそれまでふんだんに出てきます。添い寝したがるし。海に行った翌朝、おばあちゃんがおそらく熱中症で亡くなったときの悲しみよう。そしてへそくりを「父親」と「母親」が見つけて喜ぶのをみて納得がいかない気持ち。
警察は証言をとるために、おばあちゃんは計算づくで「おねえさん」の面倒を見ていた、あなたの両親をゆするために、とその事実を誘導尋問に使うのだけど。

話が虐待からそれますが、「おねえさん」は実は「おばあちゃん」の夫だった人を寝取った女性の孫ということなのですが、
「おねえさん」の両親は「おじいちゃん(おばあちゃんの前夫)」のお葬式で「おばあちゃん」に初めて会ったというぐらいなので、「おばあちゃん」は本当にその寝取られた女性なのか、なりすましなのか、もはやここまでくるとわからない。作り手もわざと曖昧にして観客の好きなように解釈させているとしか思えない。

両家の仏壇の写真は同じ人になっています。その辺も含めた樹木希林のとぼけた演技も、民生委員に対するあしらい方も、不動産屋にこの家を売ったらあんたにはいくら入るの?と聞いてくる鋭さも、パチンコ玉ネコババするときの真剣な表情もすごい。あの「おばあちゃん」の得体のしれなさが一番の見どころです。しかも途中で話からリタイアしちゃうんだもの。ものすごく気になりますよ。庭の池の話のオチとか。
それにしても熱中症問題、深刻。

これは注意喚起のために、今後テレビ等で放映するならば、是非真夏にすべき映画ですね。

それにしても「おばあちゃん」の家にも、そして駄菓子屋さんにも不動産ブローカーっぽい人現れてたように思いますが、今年のこの暑さじゃ、こうした土地を売らない独居老人たちが亡くなりやすいわけなのだから、その業界の人たち稼ぎ時だったりして。あああ……。

そして「母親」のせつなさ。「産みたくて産んだわけじゃない」と言われるような家に女の子を帰すわけにはいかないと自分の家に連れ帰ってしまうし、「女の子と一緒にいるところを見たけど、解雇を受け入れてくれればそれは誰にも言わない」と仲間だと思っていた同僚に言われて、即座に解雇を受け入れる(その代わりそればらしたら「殺す」からね、という言葉ははったりではないことがのちにわかる)。

この「母親」は自分を「おかあさん」とは自称しない。しかも自分は子供が産めないらしい。生まれつきの体質的なものなのか、西日暮里の店時代のせいなのか、はたまたDVのせいかなんてまったくわからないけど、どれにしたってつらい過去を引きずっているのにはかわらない。
だから刑事に、なぜ子供には実の母親が必要だといわれているのかと問われて「母親がそう思いたいからじゃないの?」と「血がつながっているという理由だけでえらそうな親の傲慢さ」という、真実をものすごく突いた言葉を言い返すのに「じゃあ、あなたは子供たちに何て呼ばれていたの? ママ? おかあさん?」と痛いところ突かれて「なんだったんだろう」ってさめざめと泣く「母親」。

万引きの是非について確か男の子に聞かれたときに「お店が潰れない程度ならいいんじゃないの?」と一応その辺の節度は守ったことは言うのに、女の子の服や水着を万引きするときの見境のなさそうな服の数は、やっぱり女の子には可愛い格好をさせてやりたいという「母親」なんですよ。母親になりたいというね。

「母親」は「おばあちゃんを床下に埋めた」死体遺棄や(でも刑事には、身内に捨てられたおばあちゃんを「拾った」と言い放つ)、それにともなう年金詐欺や、男の子・女の子の誘拐も(女の子の行方不明が明らかになると「身代金要求していないんだから誘拐じゃないでしょ?」という)、「父親が前科者だから」全部自分一人でやったと罪をひっかぶって懲役5年に服すことになりますが、あの疑似家族の明るい生活が持てた幸せを思い返せば「おつりがくるほどだ」と面会に来た「父親」と「男の子」に断言します。そう、それほどまでに、社会よりも温かい家族を求めて、信じ、実際にそれを作り上げていたわけです。軽犯罪に手を染めなくてはならなかったとしても、社会よりも絆のある家族を求めて、自己責任をまっとうした。まったく、たいした筋書きですよ。ものすごいファンタジーです。

よっぽど今の保守の人がそういうこと口先でいってるんじゃないの? やれ親学だの、やれ自己責任だのと。
あるいは、口先ばかりえらそうなこと言ってる割には、マージナルな人々、社会の枠から外れた人たちに対して、行政のせいにするばかりで、さほどの力にもなってない自称リベラルな人々に対する批判にもじゅうぶんとれるよ。

この映画にケチをつけるとしたら、なんだかんだいって演じている俳優たちが樹木希林も含めてどこかで個人として持っている品の良さが出てしまっていることだという人もいますよね。それもあって貧困や犯罪を美化していると。

現実を描くならドキュメンタリーですよ。でも映画は違う。現実なら、車上荒らしをする人も万引きする人も、子供を救わないと思うしね。

くしくも18年前のカンヌ映画祭パルムドール受賞作であるダンサー・イン・ザ・ダークという、あのビョークというカリスマを主演に持ってきて、ミュージカル風にしてるのに絶望的な悲惨さをテーマにした映画がありまして、それにはカトリーヌ・ドヌーヴが同じ工場の同僚役で出演しているんですね。最近のMeTooムーブメントに関係なく、撮影中からビョークは「ひでえ監督だ」と言い切っていたようですが、当時あの監督は作風によって評価されていたので、ドヌーヴ自ら出演を申し出たという話だったはず。で、あの映画を見たある友人が、「工場労働者になりきれないオーラを放ってしまうドヌーヴが出てくると『ああこれは実際の出来事じゃないんだ』と思って救われる」と言いまして。その指摘は非常に鋭いなと思ったものです。

是枝監督の「社会問題的な」映画の登場人物として、みんなどこか潔癖であるか、あるいはこぎれいな感じを与える俳優たちが選ばれているのは、テーマが悲惨だからこそ、そして、どこか物語に「希望」とか「理想」が込められているからこそ、そうするのが正解なんだと思います。どこかに虚構が入っているから。でも、それが虚構だとしても、ここまで人々が目をそむけたいと思っている社会の現実に目を向けさせる力を放っているからすごいなと思うんですよね。

しかも、ここまで、「こういうことなんだろうな」と、私もだらだらと書いておきながらなんなんですが、この映画の場合、この解釈が正しいなんてことはなくて、どうにでも解釈できる余裕と広がりを持たせてるからすごいんですよ。
私は「希望がないようでいて、人間の優しさに対する希望をものすごく込めている映画」だと感じましたけど、やっぱり「絶望的な映画」と解釈する人もいるだろうし。

なにが正しいかとか、本当に現実を描きたかったらはじめっからドキュメンタリーを撮るでしょ?
だもの、なんでもわかりやすく言いたいことを説明してりゃいいってもんじゃない、という映画を見れたのも、自分にとって大きな収穫でした。

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ちなみに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はAmazonプライム会員ならば無料で見られます。


Blu-rayも出てますね。それだけの価値はある映画だとは思いますが。


映画宣伝ついでにもう『エル ELLE』のAmazonビデオも貼っとくよ。原作と話が結構違いますけど。。


Blu-rayはあと6点ですってよ。購入はお早めにですって。原作よりもAmazon的にはまだ評判は高いのね。


2018-07-14

W杯とForbes Japanによるマクロン『革命』について

あまりブログは更新しているほうではなく申し訳ないのですが、またしばらく更新できないと思います。

私はまだ子育てというものをしていなかったころ、かなりサッカーを見ていたのです。こう言っちゃなんですけど、見る目もないわけじゃないと自負しています。で、ですね、やはり四年に一度となると、思い出したようについ見入ってしまうんですね。やっぱり世界のトップクラスの代表チーム同士が戦うわけですから。

そりゃね、通のひとに言わせれば、クラブチームのトップを争うほうがきっと面白いんでしょうけど、あれは所詮、「サッカーめちゃくちゃ上手い人たちの最上位クラスを集めた集団」の争いじゃないですか?

でも、代表同士の戦いですと、ええ、もちろん、ヨーロッパや南米からの代表だったらそれだってかなりレベル高いんですけど、国籍だけでつながっている集団なわけです。つまり
かならずしも、上手い人たちだけの集団じゃない
ところが面白いんですよね。だからクリロナやメッシがバロンドール何回も取っていても、W杯のタイトルはとれないわけです。そして、クリロナがバロンドールを何回もとっているようなえらい人でも、もうそこまでの選手になっちゃうと、そしてそこそこ年をとってしまえば、もうとりあえず喜んでチームプレーに徹しちゃったりする人格者になってしまうわけです。メッシはよくわかりませんが、ある意味、国の戦術がメッシになっちゃってるそうなので、その責任を1人背負っているわけです。周りの人たちがバルセロナ的なお膳立てが出来る人たちばかりでなかったとしても(というか自分以外にもディフェンスを引きつけてくれる選手がいなかったとしても)、自分が戦術になってしまっているというね。そんなのチャンピオンズリーグにでるようなクラブチームじゃありえんでしょ?だから面白いなーと。

というわけで、私は国としての団結!という以前に、どうやってその国の代表チームがある意味「妥協」しつつも(戦術だって自分の所属しているクラブチームとは違うかもしれない)、母国の人たちの期待を背負って勝ち進んでいくかというところにW杯の面白さがあると思います。

フランスだってベルギーに対して、1点リードしたら後半20分から全員、いいですか、あのエンバペでさえ自陣エリアにこもって攻撃に行かなかったんですよ。だっさい試合といっても過言ではないけど、あのフランス人たちが「意思統一」をして守り切っちゃったわけです。それすごいですよ。

日本がポーランドと戦ったとき、裏カードでのスコアが一切動かないことを祈りながら、そして相手のポーランドがこれ以上攻撃してこないということを祈りながら、自陣にこもって決勝トーナメントに行きましたね。あれを勇気あるリスクだとして評価されてるみたいですけど、いわゆるサッカーでリスクを負えっていうのは「運命を天任せにする」ということじゃないと私は思います。ましてや自力で進出可能な立場だったのに。「リスクを負う勇気」というのは、こっちが攻撃に出るにあたって、カウンター喰らうかもしれないけど勇気を出してリスクを負うってい意味だとこれまで信じてたので、あんなのが「リスクを負う」という定義になっているのにはカルチャーショックだったな。

だったら、なんで決勝トーナメントに行ってベルギーと戦って、ましてや2点リードしていたのに、なんで自陣にこもってボールキープしなかったのかなあって。それは、ポーランドと違ってベルギーにそれをやるのは「怖かった」からでしょうね。だもの、私やっぱり、あのポーランドとの戦いは「リスクを負う勇気」じゃなかったと思うんです。
だってベルギーに対しては怖くて、自陣にこもることもできなかった。もしその前の試合が本物の勇気だったら、ベルギーに対してだってどでかい人たちが投入されようと、延長になろうと恐れることなく、最後まで死力を尽くす判断ができたんじゃないかなと思ったわけです。
ましてやPKになったら勝率はどんな相手でもそれこそイーブン、コイントスで後攻をとる運がよければ勝率上がりますからね。
そういった微妙な局面での決断をする力、経験、そしてその場での選手への説得力は日本の代表監督にはなかったのでしょう。だから結局選手任せになった。むしろ監督よりも酸いも甘いも経験が豊富な選手が、その決断の責任を負った。あのCK間違っていたと思うけど、仕方ないと思います。間違っていたにしても、その選手にこれまでW杯、予選も含めて何度も日本代表は助けられてきたし、W杯3回、いい思い出も苦い思い出も観客として味わうことができて面白かったです。

本田△お疲れ様でした。「あなたの言うことは正論かもしれないが俺の選択は違う」的な生き方を、その結果の責任も自覚しながらできるということは、掛け値なしに素晴らしいです。

そういったことも含めて、W杯は面白いです。

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で、そんな風にW杯にうつつを抜かしていましたら、フォーブスジャパンさんのサイトで、マクロンの革命についてご紹介いただいていたわけです。先日気がついてTwitterには書いたのですが、そして、もうそれをそのまま貼り付けるというずさんな内容になって恐縮ですが、コラムで取り上げてくださいました、小林りん様、首藤淳哉様、どうもありがとうございました。マクロン大統領なんて一般的にはやれ「ロチルド投資銀行出身」とか、やれ「金持ち優遇大統領」という先入観で語られる人物であるのにもかかわらず、それでも関心をもって本書を読んでくださったんだなと伝わってくる内容で、本当にありがたく存じます。ちなみに、先日の施政方針演説では大統領本人は、自分は(不労所得で裕福な)金持ちを優遇していない、雇用をつくる企業を優遇してるんだ、と言ってましたが……。





2018-07-08

もう1年早くその言葉を私にいってくれればよかったかもなあ。

こうやってブログを書く場合、空気を読める人は「日本各地で被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます」……って書き始めるべきなのでしょうが、ごめんなさい、そこまで書けません。でも心配ですね。

毎年水害はひどいものがありますね。これが信心深い方々に言わせると、平成時代の天災の多さは、実のところ天皇家の祈りが足りないからだと言うのかもしれませんが、これは単に気候変動の問題ですよ。

喉元過ぎれば暑さを忘れる?ぽっぽこぽっぽこ天然ガス燃やしてる場合じゃないですよね。
東京が奇跡的にここまでの水害を逃れているのは、排水処理・下水道処理にものすごいお金をかけているからです。ここ数十年。私がまだ学生の頃なんで、杉並のあたりは浸水していたと記憶していますが、いまはそうではないですよね。それも排水設備が整ったからではないでしょうか。
今の渋谷駅の大改装も地下は排水処理をより効率的にするためじゃなかったかな。
だから東京でクーラーガンガンかけていても、高額所得者が住むあたりはびくともしないわけです。
それに対して、東京の東側のスーパー堤防については、もはやどうなってるのかわかりません。だったらそっちも取り入れるにせよ、別の技術をいれるにせよ、ちゃんとしないとフェアじゃないと私は思いますが、わかりません。

私は徹底的な原発反対派でもありません。廃炉にするにしても、どう考えてもそのための技術がいるわけですし、予算も必要です。むしろ、どうやってこの将来性のない発電方法を最終的には廃止に向かってソフトランディングさせるかが問題なんじゃないかと思います。

東日本大震災からもう7年以上たったいま、太陽光発電・風力発電等の再生可能エネルギー生産のコストは世界的には技術の進歩によってかなりお安くなり、あの原発大国フランスでも老朽化した原発施設をどうするか……また新たな原発施設にすべきなのか、それとも再生可能エネルギー発電所にするべきなのか、意見が分かれているようです。ましてやクリーンテック技術推進にフランスの将来を託しているマクロン大統領の場合、どうなるんでしょうか。

そう、原発大国フランスでさえそう言われています。再処理技術もきちんと持っている国でさえね。外国に原発技術を売りに行く場合、じゃあ、日本は競争力はあるんでしょうか? 確かフランス政府はマクロンが大統領になる前のオランド時代にアレバに増資しています。その前年12月に三菱重工はアレバに巨額投資する決定をして、実際そうしていますが、合弁事業だったら大丈夫ぐらいに思っているんですかね、経産省は。いいかげん目を覚ましたほうがいいと思うな。原発の何が問題って発電そのものはともかくとして、それにともなう放射性物質による汚染度をどこまで低減できるか、再処理できるかのコストなのだし。

で、日本は再処理技術ってあるんでしたっけ?施設は稼働してるんでしたっけ?

ルノー日産三菱云々いってる場合じゃ無くて、むしろ日本が日本のお金と将来を心配しなきゃいけないのはこっちだと思います。太陽光発電、風力発電の技術に関しては中国に完全に置いていかれてしまっているようですし。

東京に住んでいると、同じ国でこんなに災害にみまわれている方々がいることに鈍感になりがちです。
私ものんびりW杯の試合を視聴したり、オウム事件死刑確定者の7人の処刑についてのニュースに目を向けがちになります。

ですが、毎夏、国内の特に地方を旅行すると、ビルに入っても室内に入ってもこんなに暑いのかと思ってしまいます。ちょっと東京を出れば、そう、発電量が不十分のためなのか、冷房は控えめにしている地域ばかりです。もはや地方には親戚が居ないに等しい自分の見識の甘さには毎回自己嫌悪に陥るほどです。

じゃあ、ふるさと納税?と言われてもね。自分の暮らしている地域に還元しないで謝礼品目当てに他の地域にという気には、私はなれません。高額所得者であればあるほど自分に対するリターンも大きいあのシステムやっぱりおかしいと思う。じゃあ、災害のためにふるさと納税するというのならば、それはありだと思いますが、普通に義援金でもいいんじゃないのと私は思います。
それから義援金に対するお礼状や控除のための用紙を郵送なんてしなくていいですよ。それが必要ならば必要な人がホームページからダウンロードできるようなシステムにすればいいわけで(普通に郵送していくよりも人件費や経費がかかるのかはわからないけど)、非常時にそんな手間暇かけることない。お気持ちだけいただきます。寄付でもそうですけど。

それなのに東京は保育園が足りないとか、小学校や学童保育(または放課後クラブ)の予算が足りないとか怒っているんだもの。私の暮らす地域は企業も多く、高額所得者が多く住む地域でありますが、2年ほど前でしたか、図書館の張り紙を見て呆然としました。
「予算不足のために、芸術関係の資料(CDとかDVDのことでしょうね。書籍も圧倒的に減りましたが)は入れませんのでご承知おきください」といった内容だったと思います。なんか割り切れなかった。恥だと思った。私は本を買ってもらいたい立場の人間ですけど、買う余裕のない人、買いたくない人にまで買えとは本気ではいえない。そして、そういう人たちが文化にアクセスできないのはそれこそ「先進国」として間違っていると思います。もう読み終わった本は地元の図書館にあるかどうか確かめてから寄贈するようにしています。『革命』も遅かれ早かれそうなるかな。

昨日のオウム事件死刑確定者の処刑のニュースだってひどい。いつもなら、死刑が執行された場合ってすべて終わってから発表があるもんじゃないんですか?それなのに、まず、「松本被告の死刑を執行しました。今回他にも数名予定しています」なんてリーク、わざと政府がやっているわけですよね。それをマスコミは次は誰か誰かと待ち構えては実況放送している。死刑制度の是非についてだって色々ありますけど、これって是非以前のそれこそ倫理観の問題じゃないかと。

私は自分の息子と本当に話がかみ合わなくて、そのかみ合わなさにいたっては、もう絶望的なのですが、この件について初めて意見が一致しましたね。息子曰く

「それなら日本マジクソ終わってるじゃん」

私も息子も日本のすべてがマジクソ終わってるなんて思っていません。私は日本の将来に対しては悲観的ですが、息子は日本のみならず何に対しても誰に対しても楽観的な子供です。唯一の長所かもしれない。
よく、私に向かって「なんでそんなふうに何でもかんでも悪く言うんだ?」って言うのはいつも息子のほうです。ただ、私はこう言いました。

「この先、生きていく上で『なんでこんなことになっちゃうの?』って思うことにはたくさん遭遇するだろうから、覚悟した方がいい」と。

別に息子はもう、日本に縛られて生きていくこともない。もちろん、日本で暮らしたいのならばそれも彼の選択として認めるつもりですが。

そして私は「マジクソ終わってる」という表現をメモし、今後の業務に生かしたいと思ったわけです。