2018-07-25

完全にネタバレはしてます。『万引き家族』を観に行きました。




ひとつひとつのセリフ、シーンがその時点で受け止めたこととはちょっと違う意味をもっていて、あとになってそういう意味だったのか!と膝を打つつくりになっているので、ぼんやり観ていると、よくわかんないまま終わってしまうかもしれません。

最近の映画は1コマに込められる情報量が多くて、私はあまりついていけないのですが、幸いにしてこの映画は進行がものすごく早いタイプのものでもないから、あらかたはわかったと思います。

いやあ、やっぱりすごい映画だった。あの構成力は、ただただすごいです。

以下完全にネタバレしてますので、ここで引き返すなら引き返して下さい。



繰り返しますが、めちゃくちゃネタバレしています。ここまで書いちゃうのまずいかなとも思うのだけど、今の段階だと、たぶんリピーターの方が観に行くんじゃないかなと思うので、もういいやと。時系列で書いていないし。忘れる前に書いておきたいなと思ったほど感心した映画だし。

なので、ネタを知りたくなければここで引き返して下さい。今です。



























それにしてもこの映画の脚本すごいですね。『万引き家族』というタイトルから「モラルのかけらもない育ちの悪い人たちの貧困生活(をどうせ美化したものなんだろう?)」という先入観を持たせておいて、最後の最後までその先入観を裏切っていくのだから。


たとえば、前半の家族のようすを描いているところで、「男の子」が家族のために万引きしてきたメリットシャンプーに文句を言う「おねえさん」は、決して万引き慣れした結果の贅沢を言っているわけではなかったことがあとでわかる。

これはむしろ「自己責任」を選んだ人たちの物語。しかも、そうせざるを得なくて選んだというわけでもない。犯罪をしながらであっても家族の絆がほしかった人たちの話。


だから貧困や犯罪行為「そのもの」を単純に美化した映画ではない。いくら現実にあるような事件がたくさん盛り込まれていても、リアルに描いたのではなくて、ファンタジーなんです。

既に指摘されていることですけど、「おばあちゃん」の年金が確実な収入源としてあてにされてるとはいえ、「父親」も日雇いで働いているし「母親」もクリーニング屋の工場で働いている。働いてはいる。といっても不条理で不公平な理由で、そう、正社員と非正規社員の待遇格差がそもそもの原因で働けなくなる。会社は正社員は首を切りにくいし、保証も法律に則っていなければならないから。でも日雇いやパートはそうじゃない。ああ、同一労働同一賃金ってなんなんでしょう。

あの男女はきちんと籍を入れているわけでもなさそうし、だとしたらあの父親の年齢と状態で「一人暮らし」ならば生活保護もらうのだってできるだろうに、そうはしない。
実際、「父親」には前科があることが後半明らかになります。
だったら、かえって生活保護もらうのは簡単だろうし、すべてがばれて疑似家族がバラバラになったあと、しばらくたったあとのシーンでは、「父親」はどうも生活保護によって「お風呂だけは新品」の郊外のアパートで暮らしている様子が描かれています。

でもそうしなかった。優先順位が違ったから。優先順位の一番上にくるのは分不相応な物欲などではない。だいたい分不相応だろうと他人は知ったこっちゃないんだけど、実際、全然、まったくそうじゃなかった。

なぜ社会扶助を選ばなかったか。「家族」を手放したくないから。一緒に暮らしたいから。本物の家族じゃなくても、「社会」より家族の絆を信じたかったから。そしてその根拠はきっと、日本には社会扶助というものがある、ということをもはや信用できないような経験をあの男女……とくに「母親」はしてきてるから。社会は助けてくれない。

そう、死亡事件が起こるたびになぜ行政は助けられなかったのかと話題になる児童虐待……そのなかでもネグレクトについては、この映画では程度の差こそあれ、少なくとも3つのケースが出てきます。(実際には4つほのめかされているわけだけど、4つめはそれは想像させるものなので省略)

まず、予告編にもあるあの小さな女の子。パートナーからDVを受けている母親の恨みのはけ口になって、冬の寒空に何も食べさせてもらえずパジャマのまま団地のベランダに出されて家の中に入れてもらえなかったり、腕にアイロン当てられたり。体は傷痕だらけ。「産みたくて産んだわけじゃない」と思わず母親が口を出してしまう子供。でも「保育園に行っている」とニュースに出るぐらいなので、母親も働いているようです。

この「万引き家族」の「おとうさん」が、寒空に空腹のまま団地のベランダに放置されている女の子を見かねて家に連れ帰って夕ご飯を食べさせてやることにしたのが話の発端ですが、「おばあちゃん」はすぐに体の傷痕に気づきます。その女の子が優しくされた思い出、心のよりどころは「天国にいるおばあちゃん」が作ってくれたくたくたに煮たお麩だという。それが大好き。でも、その子が最終的に実の家庭に戻されたときに、母親が作ってやったと自称する食事はオムライス。事実だとしても、マスコミからの質問の手前嘘を答えたにしても、自分の子供の好物もよくわかっちゃいないということがそれだけでわかる残酷さ。

とはいえ、最後に、またもその女の子がベランダから、ガラクタが入ったビンを大事に脇に置いて、外を見ようとするそのまなざしから、万引き家族との思い出が、天国にいる自分のおばあちゃんとの思い出と同様、その子のよりどころになったことが伝わってくるんですね。まったくもってすごい撮り方。

この女の子はそれまで本当の家族の元に帰るチャンスがあったのに、あえて万引き家族との生活を選んだ子でした。


そして、その万引き家族との生活を終えた後、実母の「服買ってやるから」という言葉が、軽薄なものだとわかってしまった。
万引き家族の「おかあさん」が、この子は髪の毛の色からするとこっちのほうが似合うんだよね~まいったなあ、頭をかきながら楽しそうに似合いそうな水着や服を選んでやって万引きする……そんな思い出もあるし、その「おかあさん」に「『服を買ってやるという言葉は、その言葉に乗ったら最後、あとでいちゃもんつけられて暴力をふるわれることを意味しているわけではない」と教えられたから。

「おにいちゃん」が自分の手で生活を変えたように、それまではこの女の子にはなんとか生き抜いてほしい。かなりやばい状況のはずなのだけど、この子はもしかしたら生き抜けるかもと思わせる撮り方をしているように私には見えました。
身内ではなく、他人に損得抜きで助けられた経験がある子のほうが実際は強いのかもしれないと。そう、本当ならば家族よりも社会のほうが困っている人を助ける力があるはずなのです。でも、制度的な話なんか抜きにして、この国の国民性としてそういう社会であるのかは疑問を感じずにはいられません。

つまり、この映画は日本の行政制度の不備を責めているとも限らない。仮に、その手の問題提起をしているとしたら、それを見ない振りして関わろうとしない「ふつうの人々」の欺瞞に対してなんじゃないのかな。

2つめは、その子の「おにいちゃん」のケース。学校にも行かせてもらえず(「学校は家で勉強できない子が行くところだ(おまえは家で勉強できるのだから行かなくていい)」と教え込まれている)、唯一「父親」が親として教えてやることができた処世術だという万引きをする男の子が、どういういきさつであの家族のなかでいることになったか、最後の最後で「母親」によって観客に明かされます。

男の子はお店で万引きすることについては「まだ持ち主が決まっていないものだから」という「父親」の理由に納得していたけれど、物の持ち主が決まっている車上荒らしを教わることは拒絶するんです。それでも「父親」が捕まらないように一応見張りはしますが。そして一緒に逃げながら「ぼくを助けようとしたからだったの?」と。「父親」は目が泳ぎながらも肯定する。

「父親(と「母親」も?)」がパチンコ屋の駐車場で車上荒らしをしていたついでに、幼い子供が暑い中車の中で放置されていたのを助けたのに、その成長したその子供は、車上荒らしを目撃することによって、軽犯罪を繰り返す生活から足を洗いたくなるきっかけになってるという因果がすごい。

そして、この子が唯一のこの映画での希望でもある。この子だけが、家族といっしょは居心地はいいかもしれないけれど、この生活から抜け出さなければならない、社会に出なければならないと思って、自ら実行したのだから。施設に送られた後、一生懸命勉強していることがわかるせりふが色々あります。

そして、男の子が「わざとつかまった」と告白したその気持ちを、最終的には「父親」も、そしてその男の子を拾ったいきさつを詳しく説明した獄中の「母親」も察して、この子を解放してやります。いや、男の子がつかまったときに病院に置き去りにしたつもりだったけど、もうあのとき既に解放していたのかもしれない。

再会した「父親」は「もう(おとうさんじゃなくて)おじさんにもどるわ」と男の子に言います。「母親」はその子を拾ったいきさつを説明して、本気出せばその情報で本当の両親も見つかるとまで断言する。

「父親」も「母親」も両親になることを諦めることによって、この子にとって両親になる。だからずっと言えなかった言葉も、もう「父親」には届かないその言葉を男の子はバスの中で口にする。

病院で「自分を置き去りにした」万引き家族について刑事に質問されているときに、男の子は学校に行く意義を尋ねます。刑事は「勉強のためだ」とは言いません。「人と出会うため」と答えます。

それまで男の子にとって、家族以外との唯一の「人との出会い」、「社会とのつながり」は駄菓子屋兼雑貨店でずっと自分の万引きを実は見守り続けていて、「いもうと」が万引きをまねたときに別のお菓子まで持たせて「いもうとにはさせるな」と声をかけた店主のおじさんでした。そのおじさんも夏に急に亡くなって、古びた木造の自宅兼お店は閉店してしまう。クーラーなさそうだったし、ほんと熱中症問題深刻よ。

でも、その経験があったからこそ、刑事のその言葉のポジティブな側面に納得して男の子は施設に行くことにしたのでしょう。けれども果たして私たち大人は、たとえば学校とは「人と出会うため」と断言できるのでしょうか? そう、学校とは、子供によい影響を与えられる人間関係を学ぶの場であるという責任を自覚しているのでしょうか? 「学校の意義は人との出会い」とはよく言われますが、その言葉の重さ、「家族のなかだけでは人間は成長できない、社会の一員としての有意義な経験も必要だ」という責任を、大人はいま一度かみしめるべきだと思います。

子供のうちに、自分の好き嫌いとは関係ない人々も含めた社会のよさを信じることができなかったら、大人になったときに、ただ自分と自分のお仲間さえ良ければいい人になっちゃいますよ。

私の両親は、地域社会とつながることをどこかで嫌っていました。つきあいが面倒だと言って。うちのこと詮索されたくないからと言って。そしてどんな家庭であるかを、友達という「他人」に話すことも禁じていた。父は毎日家に帰ってくる健全な家庭ということになっていたし。高校生になってもそれは続いていました。
そんなふうに育った私も、この高度にカオス化した家が恥ずかしいからお友達を簡単に呼んでこないでと息子に言ってしまうんですけどね。

学校であれ、家庭であれ、子供の心の居場所のあるなしは、必ずしも貧困問題と関係があるわけでもない、というのは、息子を通じてここ数年、いまもなお、感じるところであります。

それでも、以上の2つの男の子と女の子のケースは貧困問題と関係はあるでしょうね。ですが、3つめのケースはまさに私が一番ぐさっときたところ。
「母親の妹」という扱いになっている20歳ぐらいの「おねえさん」のケース。結構いい家に住んでいる両親が「おねえさん」の妹をかわいがっているシーンが出てきます(そのシーンの見せ方も見事)。
それから「おねえさん」はバイト先のJK風俗で出会った、口のきけないお客さんの自傷の痕をみつけて、共感して泣いて付き合い始めてしまうほど、自分自身にも自傷癖があったのだろうなとわかるようにできている。

冒頭、男の子がシャンプーを万引きしてきたブランドが「メリット」で「おねえさん」はぶつくさ文句を言うシーンで観客は、「万引き慣れして贅沢しているしょうがない若い子」というミスリードされるだろうけど、もともとメリットよりもいいシャンプーで髪の毛洗ってたような家の育ちだからとあとでわかる。

そう、子供に対する「虐待」は精神的なものならなおさら、所得層なんて関係ないことをつきつけられるわけです。

実際、親は高校卒業後家出したおねえさんを『オーストラリアに留学している』と取り繕って、恥ずべきこととして捜索願も出していないように見える。
むしろ家出娘のことをうすうす感づかれてるんじゃないかと思う気持ちも重なって、前夫の月命日だからといってやってくる「おばあちゃん」にお金を渡してしまう(毎回3万円)。

「おばあちゃん」はここまで計算して「おねえさん」を引き取ってたのかどうかは、「おねえさん」にも最後までわからない。だから「おねえさん」が疑似家族が解散した後にもう入れなくなったあの家をのぞきにいくのは、それを確かめたかったからかも、家族愛を確かめたかったのかもしれません。そして、あのお客さんと付き合い続けるのか、実の家族のところに戻るのかはわからない。まずは前者なんだろうなと思うけど。「母親」が「父親」とのなれそめを「あたしだって(出会いは相手が)客だったから」と肯定的に話していたしね。

おねえさんはおばあちゃんが大好きだというシーンはそれまでふんだんに出てきます。添い寝したがるし。海に行った翌朝、おばあちゃんがおそらく熱中症で亡くなったときの悲しみよう。そしてへそくりを「父親」と「母親」が見つけて喜ぶのをみて納得がいかない気持ち。
警察は証言をとるために、おばあちゃんは計算づくで「おねえさん」の面倒を見ていた、あなたの両親をゆするために、とその事実を誘導尋問に使うのだけど。

話が虐待からそれますが、「おねえさん」は実は「おばあちゃん」の夫だった人を寝取った女性の孫ということなのですが、
「おねえさん」の両親は「おじいちゃん(おばあちゃんの前夫)」のお葬式で「おばあちゃん」に初めて会ったというぐらいなので、「おばあちゃん」は本当にその寝取られた女性なのか、なりすましなのか、もはやここまでくるとわからない。作り手もわざと曖昧にして観客の好きなように解釈させているとしか思えない。

両家の仏壇の写真は同じ人になっています。その辺も含めた樹木希林のとぼけた演技も、民生委員に対するあしらい方も、不動産屋にこの家を売ったらあんたにはいくら入るの?と聞いてくる鋭さも、パチンコ玉ネコババするときの真剣な表情もすごい。あの「おばあちゃん」の得体のしれなさが一番の見どころです。しかも途中で話からリタイアしちゃうんだもの。ものすごく気になりますよ。庭の池の話のオチとか。
それにしても熱中症問題、深刻。

これは注意喚起のために、今後テレビ等で放映するならば、是非真夏にすべき映画ですね。

それにしても「おばあちゃん」の家にも、そして駄菓子屋さんにも不動産ブローカーっぽい人現れてたように思いますが、今年のこの暑さじゃ、こうした土地を売らない独居老人たちが亡くなりやすいわけなのだから、その業界の人たち稼ぎ時だったりして。あああ……。

そして「母親」のせつなさ。「産みたくて産んだわけじゃない」と言われるような家に女の子を帰すわけにはいかないと自分の家に連れ帰ってしまうし、「女の子と一緒にいるところを見たけど、解雇を受け入れてくれればそれは誰にも言わない」と仲間だと思っていた同僚に言われて、即座に解雇を受け入れる(その代わりそればらしたら「殺す」からね、という言葉ははったりではないことがのちにわかる)。

この「母親」は自分を「おかあさん」とは自称しない。しかも自分は子供が産めないらしい。生まれつきの体質的なものなのか、西日暮里の店時代のせいなのか、はたまたDVのせいかなんてまったくわからないけど、どれにしたってつらい過去を引きずっているのにはかわらない。
だから刑事に、なぜ子供には実の母親が必要だといわれているのかと問われて「母親がそう思いたいからじゃないの?」と「血がつながっているという理由だけでえらそうな親の傲慢さ」という、真実をものすごく突いた言葉を言い返すのに「じゃあ、あなたは子供たちに何て呼ばれていたの? ママ? おかあさん?」と痛いところ突かれて「なんだったんだろう」ってさめざめと泣く「母親」。

万引きの是非について確か男の子に聞かれたときに「お店が潰れない程度ならいいんじゃないの?」と一応その辺の節度は守ったことは言うのに、女の子の服や水着を万引きするときの見境のなさそうな服の数は、やっぱり女の子には可愛い格好をさせてやりたいという「母親」なんですよ。母親になりたいというね。

「母親」は「おばあちゃんを床下に埋めた」死体遺棄や(でも刑事には、身内に捨てられたおばあちゃんを「拾った」と言い放つ)、それにともなう年金詐欺や、男の子・女の子の誘拐も(女の子の行方不明が明らかになると「身代金要求していないんだから誘拐じゃないでしょ?」という)、「父親が前科者だから」全部自分一人でやったと罪をひっかぶって懲役5年に服すことになりますが、あの疑似家族の明るい生活が持てた幸せを思い返せば「おつりがくるほどだ」と面会に来た「父親」と「男の子」に断言します。そう、それほどまでに、社会よりも温かい家族を求めて、信じ、実際にそれを作り上げていたわけです。軽犯罪に手を染めなくてはならなかったとしても、社会よりも絆のある家族を求めて、自己責任をまっとうした。まったく、たいした筋書きですよ。ものすごいファンタジーです。

よっぽど今の保守の人がそういうこと口先でいってるんじゃないの? やれ親学だの、やれ自己責任だのと。
あるいは、口先ばかりえらそうなこと言ってる割には、マージナルな人々、社会の枠から外れた人たちに対して、行政のせいにするばかりで、さほどの力にもなってない自称リベラルな人々に対する批判にもじゅうぶんとれるよ。

この映画にケチをつけるとしたら、なんだかんだいって演じている俳優たちが樹木希林も含めてどこかで個人として持っている品の良さが出てしまっていることだという人もいますよね。それもあって貧困や犯罪を美化していると。

現実を描くならドキュメンタリーですよ。でも映画は違う。現実なら、車上荒らしをする人も万引きする人も、子供を救わないと思うしね。

くしくも18年前のカンヌ映画祭パルムドール受賞作であるダンサー・イン・ザ・ダークという、あのビョークというカリスマを主演に持ってきて、ミュージカル風にしてるのに絶望的な悲惨さをテーマにした映画がありまして、それにはカトリーヌ・ドヌーヴが同じ工場の同僚役で出演しているんですね。最近のMeTooムーブメントに関係なく、撮影中からビョークは「ひでえ監督だ」と言い切っていたようですが、当時あの監督は作風によって評価されていたので、ドヌーヴ自ら出演を申し出たという話だったはず。で、あの映画を見たある友人が、「工場労働者になりきれないオーラを放ってしまうドヌーヴが出てくると『ああこれは実際の出来事じゃないんだ』と思って救われる」と言いまして。その指摘は非常に鋭いなと思ったものです。

是枝監督の「社会問題的な」映画の登場人物として、みんなどこか潔癖であるか、あるいはこぎれいな感じを与える俳優たちが選ばれているのは、テーマが悲惨だからこそ、そして、どこか物語に「希望」とか「理想」が込められているからこそ、そうするのが正解なんだと思います。どこかに虚構が入っているから。でも、それが虚構だとしても、ここまで人々が目をそむけたいと思っている社会の現実に目を向けさせる力を放っているからすごいなと思うんですよね。

しかも、ここまで、「こういうことなんだろうな」と、私もだらだらと書いておきながらなんなんですが、この映画の場合、この解釈が正しいなんてことはなくて、どうにでも解釈できる余裕と広がりを持たせてるからすごいんですよ。
私は「希望がないようでいて、人間の優しさに対する希望をものすごく込めている映画」だと感じましたけど、やっぱり「絶望的な映画」と解釈する人もいるだろうし。

なにが正しいかとか、本当に現実を描きたかったらはじめっからドキュメンタリーを撮るでしょ?
だもの、なんでもわかりやすく言いたいことを説明してりゃいいってもんじゃない、という映画を見れたのも、自分にとって大きな収穫でした。

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ちなみに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はAmazonプライム会員ならば無料で見られます。


Blu-rayも出てますね。それだけの価値はある映画だとは思いますが。


映画宣伝ついでにもう『エル ELLE』のAmazonビデオも貼っとくよ。原作と話が結構違いますけど。。


Blu-rayはあと6点ですってよ。購入はお早めにですって。原作よりもAmazon的にはまだ評判は高いのね。


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