2018-04-13

楽しかった小学校

ふとしたきっかけで山田先生の「歯を食いしばれ!」という怒鳴り声が頭のなかで再生されてしまうことがあります。

山田先生は私が小学校3年生のときの担任で、年はおそらく今の私よりは若い30代後半ぐらいの女性教師でした。
「歯を食いしばれ!」というのは、しくじったりやっちゃいけないことをやってしまったりしたクラスの子にお仕置きのビンタをする前の山田先生の掛け声。
私は山田先生にビンタまではされたことはなかったけれど、誰かがビンタされるのを見なきゃいけないのがつらくて。
とにかく失敗することへの恐怖、目をつけられるようなことはしちゃいけない…けれども子どもってなんだかんだいっても順応力があるから、そんな毎日でもなんとかやり過ごしていくことができてしまうんです。





私は4年生の途中で同じ市内の違う学区に引っ越しましたが、引っ越す前の担任はまだ若い20代の男性教師でした。額にちょっと剃り込みが入って、なんだかちょっとうっすら黄みがかった色のメガネをかけた目の細い先生。そして手にはいつも木刀まがいの長い木の棒。

その先生は子どもたちが忘れ物をするのが大嫌いで、どの授業でも忘れ物をする子がいると廊下に先生に背を向ける形で一列に立たせられて、一人ずつお尻をその棒で一発ずつ叩かれるのがしょっちゅうでした。基本的にはその木の棒だったけれど、教室で立たされて目をつぶれって言われて人が近づく気配がすると指揮棒でおでこを叩かれるとか、今振り返るといつ授業してたんだろうって思うのだけど、忘れ物の多かった私はほぼ毎回叩かれてました。

その先生の名前はどうしても思い出せません。いや、思い出してるんだけど頭の中で否定してるだけなのかも。息子の担任をしてくれた先生と同姓だから。息子の担任だったほうの先生はとてもいい先生で、2年間息子はそれはもう学校に行くのが楽しみで楽しみでしょうがない毎日を送りました。

でも山田先生との時間と4年生の担任の先生との時間とどっちがつらかったかといえば山田先生との時間。
山田先生はビンタだけじゃなく、精神的ないじめをしていたからです。
たとえば「英会話なんて習ってる奴いるのか? いるなら手を上げろ」などと藪から棒にホームルームで言い出すんです。

「ああ、手をあげたくないなあ、でももしかしたらお母さんが家庭訪問でそんな話しちゃってたかもしれない、だったら手を挙げないとお前習ってるんだろ!って言われそうだなあ」とうつむいて1分ほど悩んだ末にひとりだけ手をあげるわけです。

するとしたり顔で「ほう、英語習ってるのか。ほにゃららほにゃららは日本語どういう意味か?」と聞かれる。今から思えばHow old are you? とかHow are you? 程度の文章だったのでしょうけど、おびえてガッチガチになった私は何言われてるかわからなくて答えられない。そうして先生の高笑いとともに「親に英会話なんて習い事させてもらってそんなことも知らないのか?」という声が耳に飛び込んできて…

陰湿でしたね。まだ4年生のときの木の棒や運がよければ竹刀でほぼ毎週叩かれてたときのほうが痛かったけど、その先生はあんまり引きずるタイプじゃなくて、叩いたらリセットしてくれたから気分的には楽でした。

家庭訪問があるときは学校から先生を自宅に案内しなきゃいけなかったり、次のお家まで道を知ってる場合は連れて行ったりしなきゃいけなかったのですが、木の棒の先生は先生なりに私のこと心配してくれてたようで「勉強しろとばっかりお母さんに言われてないか?」「ちゃんと友達と遊んだりしてるのか?」としきりに聞いてくれたことが忘れられません。

ああ、運動神経悪くて不器用なのに勉強だけできるとそう思われるんだな、と。
母も強気で自意識過剰なタイプだったのでそう思われても仕方ないんだろうな、と。
「そんなに勉強しろとは言われません。でもエレクトーンは必ず1時間練習してからじゃないと遊びに行っちゃいけないと言われます」「厳しいな」「…でもそうしないと遊べないから」

引っ越した後の5、6年生のときの担任の山本先生もある意味とんでもない先生でした。まず、あからさまにえこひいきする先生で、悪いことに私はひいきにされていたほう。そして私は、その特権を利用して授業中に前に座っていた男の子がボケをかますたびに缶ペンケースでいきなり頭叩いてました。山田先生よりもひどいです。

先生は私を本気で注意したことはありませんでした。でもその親御さんは、私が缶ペンケースで頭を叩いてたお子さんに「女の子には手を出しちゃいけない」って諭していたそうです。それでも限界値は超えますよね。とうとうその親御さんは先生に苦情を言い、それをそのまま先生は伝えにくそうに母に伝え、母は私を叱り、私はやめました。いや、厳密に言うともっとひどくて、すぱっと缶ペンケースを出して、その子が身を守ろうとするとすっと缶ペンケースを下ろすの。

あの子はいつも私に叩かれても笑ってた。今、私が謝ることができるなら一番謝りたいのはみのだ君です。どういう字だったか思い出せないけど。私は最低でした。今ならネットいじめを平気でするような小6女子だったと思う。

しかも私は、山本先生の自宅で先生の奥様に週一で学校の復習と称して学校でのテストでできなかったところをお金払って見てもらってたんですよね。当時では珍しく中学受験に好意的な先生でした。で、「内申書をよくするために、学校のお勉強も大事です」って母に持ちかけたみたい。果たして母にそれを断る選択肢があったんでしょうか。

でもどうしても私は地元の中学には行きたくなかった。友達同士の結束は固かったけど、中学に行ったら先生からだけじゃなくて「先輩」からもきっと殴られるし、私みたいな理屈っぽくて空気読めない女子は徹底的にやられるってわかってましたから。口げんかならともかく体を使ったけんかなら勝ち目ないし、母もきっと私には地元の中学は荷が重すぎるとわかってたのだと思います。中学受験させてもらいました。

親の第一志望、塾でのテストでも合格率はほぼ確実、山本先生も絶対に受かるだろうと太鼓判を押した横浜で一番偏差値が高いと当時言われていた女子校には落とされました。私、そこの学校見学に行ったときに、雰囲気があまり好きになれず、どうにもその学校に自分が行くというイメージがわかなかったんですけどね。でも両親はブランド志向だったから。

落ちた心当たりその1:だって、私、校長の面接で怒られたから。

3人ずつの面接だったけど、その校長、正面向かないで横向きで足伸ばして机の上に肘ついてこっちを見ているっていうひどい態度だったから「なにこの人」って思ったし、私はその嫌悪を隠せませんでした。

どうしてこの学校を受けたのか、と聞かれて、他の子たちは判を押したように「どこそこでこの学校の生徒さんに会ったときに親切にしてもらってうれしかったから」とか褒めまくってました。
へえ、そういうエピソードが面接では必要なのかと。

私は「文化祭見てきて、服装の規則もきつくなささそうだし、自由な感じがしましたから」ととりあえずその学校で唯一気に入った点を正直に話したんですけど、その横向きで足を伸ばしてる校長がいきなり机を叩いて
「好き勝手にするってのと自由ってのはちげーんだよ!」と言ったんです。

いっとき就職活動の圧迫面接とかいうのが流行ったみたいですけど私は35年前に経験してたんでしょうか。

落ちた心当たりその2:だって私は田中角栄は地元では神様扱いされてるって答えちゃったから。

6人ずつの面接の時に、ロッキード事件について質問され、田中角栄について意見を求められたんです。みんな汚職は悪いとかなんだかんだ紋切り型の答えするものだから私は面倒くさくなってきて飽きてしまいました。
私が6人目だったんですけど、私の祖母は新潟出身なもので、地元での角栄人気の話知ってたんですよ。だから「そんな人でも地元では慕われているし、地元の発展に貢献した人って言われてる」って答えたら、面接官の先生方は目を丸くして多数決とったんです。「田中角栄にもいいところがあると思う人は手を挙げて下さい」引っ込みがつかなくなった私は一人だけ手を挙げました。「田中角栄は悪い人だと思う人」5人手を挙げますよね。

母は受験の数日前からインフルエンザにかかり、受験には付き添いませんでした。私が帰宅した後その話をしたら頭を抱えていました。前日なんて私以外の家族3人とも床に就いていたけど、私がかからなかったのはおそらく私だけワクチン打ってたからなんでしょうね。

「でも、試験はできたんでしょ?」「出来たと思うよ。でも絶対に落ちてると思う」
そして「5日に2次募集受けさせてくれるとかいうあの東京の学校の願書出してほしい。通うの大変かもしれないけど地元の中学には行きたくない」と。

母は「まだ体の調子がいまいちだから…」
「だったらお金ちょうだい。私が申し込みに行くから」

さすがの母もそれはさせられないと思ったらしく、3日に私が、最終的には体育の試験まであるという当時たしか30名も合格者も出さなかった私が受かるわけもない有名校(昨年女優さんが入学したところね)の試験を受けている間、近所のその学校に申し込みにいきました。その3日に受けた学校なんてもちろん落ちましたけど。

なお、当時その横浜の学校は面接日が2日間に分かれていて受験番号が早い人が2日、遅い人が3日なので、遅めに出願するのが王道だったんですよね。2日の受験校を併願しやすいという意味で。
私は1日も2日も他の学校を受けたかったけど、親も認めなかったし、山本先生もなんていったってあの学校、と薦めていました。
しかも入りたい意志を見せるために受験番号が早いほうがいいとまで言って、私が受かれば行きたいなと思っていたほかの学校を受けるチャンスまでつぶされて。

横浜の学校の発表を見に行くと、母はぐったりとして、そのままタクシーを拾って私を乗せて自宅に帰りました。

で、2次募集の東京の学校を受けに行ったわけです。
その学校の面接は私の人となりを聞くような、本当にまともな質問をしてくれたし、まっすぐこちらを向いて和やかに話してくれる先生たちばかりでした。
母も面接を受けましたが、あの人はここぞというときには勝負強いから堂々とまともな答えをしてくれたし、ここだったら通ってもいいんじゃないかと私は好感触で帰りました。

試験簡単だったから自信あったし。

ただ、横浜じゃあまりにも知られていない学校で、しかも特殊な読み方をする学校なので、学校ではやたら卒業までからかわれました。それでも地元の中学に行かなくて済むのなら我慢できました。

そこの6年間、ものすごく楽しかったと言えば嘘になります。
けれども私みたいに滑り込みのどさくさで入ってきた人もいれば、第1志望として3代続けてこの学校なんですなんて憧れて入ってきた人もいましたし、授業料が安い学校だったから、割と家庭のバックグラウンドが庶民的でもあったりして、女子校でもそこそこ多様性が担保されていたように思います。
私みたいなひねくれ者でも居場所があったのはよかった。あと先輩後輩の関係がきつくなくて、当然、暴力は振るわれないところとか。

とにかくプロテスタントでも特異な宗派らしく、私、結構まじめに神様と対話していましたよ。
週1回沈黙の礼拝とかあって20分間ただ黙ってるとかありました。ほとんどの子は寝てましたが。
キリスト教だと変に聞こえるかもしれませんが、今で言うマインドフルネス、瞑想みたいなもんでしょ? 私ってば30年は先を行ってたかもしれません。

結論なんて特にないのですが、残念ながら、時にはとんでもないネガティブな動機が勉強するぞっていうモチベーションになることがあることと、
だけど、12歳にもなれば、自分の生活どうしたいか自分で決めることってできるんじゃないかな、ということですかね。
それを大人は認められるかどうかにつきるのではないかと。

0 件のコメント: